(一)

追憶を持つ丈では何のたしにもなりはしない。つぎにはそれを忘却する事ができねばならぬであろう。追憶がわたしたちの血となり眼となり表情となり名前の分らぬものとなり最早、わたしたち自身と区別する事ができなくなって、初めて、ふとした偶然に一篇の詩がぽっかり生れ得たら……。

R・M・リルケ

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カラカンダから奥地へ約四十粁涯しなく続く丘陵中の一盆地にあるスパスク療養所へ送られてとある日。保は軍医の一人に医務室に来ないかと呼ばれた。満州からずっと一緒の独立野戦照空隊長、磯村中尉は

「此処に居れば休んで居られるのだ。病院勤めはとてもお前の体では持つまい、いかん」

と云われても何日か栄養失調が癒れば又カラカンダへ帰され煉瓦、建築作業いや屹度今度こそは炭坑へ入れられるであろう、その次は死と決めこんでいる保は医務室で働けばカラカンダへ行かずとも済むといふ言葉に誘われ、此時許りは隊長に反対して行く事にした。

此処スパスクはカラカンダ地区の捕虜療養所で集まる者も独乙人はじめルーマニア、ユーゴーといった今次大戦に捲きこまれ敗れた大小国各人種の寄合で地図を見なければピンと来ぬアルバニア人も居た。人数も独乙人が圧倒的に多くそれ丈に医務室も今迄の通訳が原因不明で失明した後、軍医達は困り抜いて生囓りの独乙語を話す保に目をつけたのである。

二万余坪の敷地を三重の鉄柵で囲んだ中に第一病棟から第七迄あり、第一から第五迄の院長は独乙人、第六は日本人、第七は日本及独乙人に別れ、第一は外科、第二は結核三期、第四は内臓疾患、第六は肺浸潤、第七は皮膚、精神病となって居り医務室で夫々診断して各病棟へ入院させる手前、如何しても外国語を(わきま)える必要があり、

(はた)(また)医務室はソ連監督下に日本、独乙人用に区切られ、より長い捕虜生活で身に着いた要領のよさと先天的な自尊心から食堂の作法迄一々面と向って注意しそれでいながらパンを盗みG・P・U(旧ソ連KGBの前身。連邦政治警)に密告する卑屈な独乙人との間に兎角問題を起し勝ちな処でもあった。