シェシャルクが
「人は正しい事はあく迄も押すのだ。捕虜は意思がない。只々自分丈が生きて行こうとする動物だ。保、あわててはよくない。落着いて行って来なさい。屹度何かの間違いだろう」
と云うのを保もそう念じ乍ら所内の南隅にある白いバラックに重い足を引ずって行った。両開きとびらの中に入れられると中は二十畳程の広さで中央にテーブルがあり向いにソ連G・P・U将校が腰かけている。壁に大きな世界地図が掲っている。
テーブルの左に此間
「体が一寸変だがレントゲンをとるのは恐い。死にませんか」
と言った金というソ連国籍の朝せん人通訳が腰を下ろしている。
将校の真向いに坐らされた保にレニングラード製の金口の巻煙草が与えられ型通りの姓名、国籍が問われ職業を云う際うっかり地所持ちと正直に言ってしまいしまったと思った。
「ふん、カピタリスト」。
「でも空襲にあって家は殆ど焼けたらしいから今ではほんの僅かしかないと思います」
「君は帝国主義者であり軍国主義者である。日本へは還さぬ、今の仕事は止めさせ炭坑へ行かせる。いい体ではないか。此処で使っておくには勿体ない」。
彼の胸間には今大戦の殊勲を物語る各種勲章がいかめしく輝いている。きょとんとしている保に
「ロシア語は分らぬのか。君は将校だろう」。
金がびん乏ゆすりし乍らもどかしげに
「早く返事しなさい」
と日本語で言う。保はシェシャルクの言葉を思い起し乍ら
「ロシア語は全く知りません」
と噓をついた。金がたたみかけて
「君は帝国主義者であり……」
と繰返す。
1）シューバー：冬用の外套
2）NKVDエヌカーヴェーデー：ソ連内務人民部 スターリン政権下刑事警察。秘密警察、諜報機関と統括していた組織
