【前回の記事を読む】夫を亡くし、弟まで失った母…独り身の寂しさを慰めた相手は、私の異母兄だった…しかも母は、その兄との子までなして……

第一章  「消えゆく光芒(こうぼう)

額田部女王 × 蘇我馬子

額田部女王八年(六〇〇年)、正月。

新羅がすでに支配していた任那にさらに兵を入れて暴虐を尽くしているとの報せを受けて、すぐさま任那救済のために征新羅大将軍に我の弟である境部摩理勢(さかいべのまりせ)、副将軍に穂積祖足(ほづみのおやたり)を任命し兵一万で出征させたところ、瞬く間に新羅を屈服させることができた。

そして戦後処理のため外交に長けた難波吉士磐金(なにわのきしいわかね)を半島に派遣することにした。

難波吉士には、しばらく途絶えていた新羅からの「任那の調(みつき)」を復活できれば、さらに隋まで足を延ばし、倭国は半島諸国から朝貢を受けている上位の立場として遣いせよと申し渡した。

それを耳にした太子が、磐金ならば先年新羅より献上の鵲(かささぎ)二羽の飼育を、父王を祀る「森之宮社」で引き受けた縁で存じている。

この機会に隋の情勢を知りたく、近江の知人で、まだ若いが賢く容貌も優れた春日小野妹子(かすがのおののいもこ)なる人物を是非とも遣使に「史生(ししょう)(書記)」としてでも随行させてほしいと懇願してきた。

我としては今回の派遣は試みと考えており、特に否というほどでもなく承諾した。

ご承知の通りその時の顛末は使者の難波吉士磐金が、半島での勝利を受け勇みこんで隋に行き、我が国の成り立ちを誇らしげに申し述べるも、隋帝より蛮夷の因習で道理にかなわずと歯牙にもかけられず。

鴻臚卿(こうろけい)(外交長官)を通じて、まずは国の仕組みを改めよと教え諭された。

誠に恥ずかしき仕儀となり、女王は憤り、我と太子を前にして遣使自体を事実なしとされた。

ただ、太子に見込まれた春日小野妹子は堂々とした物腰で現地の諸官と接し、隋の制度や文物を学び見聞してきた。それが隋帝にも認められ、「蘇因高(そいんこう)」の名も与えられた由。帰国後は小野と氏名(うじな)を変えて太子に仕え、新しき国づくりに力添えをしてきておる。

そのような経緯で我が国の外交は太子に委(ゆだ)ねることとしたが、それを受けて太子は隋を念頭にして新しい制度や通交路の拠点づくりとして斑鳩の地に居を移した。