思うに、太子は大臣である我の思惑に引きずられることなく、思いのままの策をはばかりなく進める覚悟であったのだろう。
確かに「十二階の官位」「十七条の憲法」の制定など精力的に進めてきたが、我が国が古より習わしとしてきた有力氏族による大王家を支える形を変えて、個々の人物の資質や実績に頼ろうとするもので、氏族の立場が薄れようと我は懸念を感じたが、太子も属する我が蘇我氏については大王家を支える立場として、その新しき仕組みを超えて縛られぬとのことで了解した。
しかしよく考えてみると、時代が過ぎてその形が固まると我が蘇我氏も骨抜きになると思われる。太子はその先まで見通していたのだろうか。
太子の底深い胸の内は誠に計り知れぬ。
我が国の半島政策は、倭人の故地であり古からつながりのある任那を足掛かりにして、新しき文物や人材などは長らく百済を頼ってきたが、新羅はその任那を滅ぼして支配した。
その上で新羅王は倭国の体面を考慮し、任那は未だ存続している態にして「任那の調」を我が国に献じてきたが、時としてさらに任那に害を及ぼし任那の調も滞る事態となることもしばしばであった。その都度、我が国は征討軍を送り懲らしめてきており、境部摩理勢の出征もそうであった。
戦勝により我が国への調は復活したが、兵を引くと新羅は翌年すぐに任那に侵攻し調も途絶える始末になってしまう。