「先生、苦しいよ」

それが陽葵の気持ちのことなのか、俺の苦し紛れの言葉の羅列のことなのか、はたまたそれら両方のことなのか、わからなかった。

こんなことで、陽葵のモチベーションが下がるのは避けたいところだ。目標のT高校に行ってくれるなら、この際、彼女の気持ちに答えた方がいいのだろうか。

そんな悪魔の囁きにも似た考えが一瞬よぎった最低な自分が嫌になる。

「高校の数学はね、今の何倍も難しくなる。だから俺には教えることができない」

「じゃあ、また数学嫌いになっちゃうかも……」

「T高校の先生は、熱心に指導してくれると聞いているよ。大学受験のためなら、補習も厭わないらしいよ」

「でも今の数学の先生みたいにキモかったらどうしよう」

自分の生活を振りかえると、とても陽葵に言える立場にないことは重々わかっていることだが、少しは社会人としての意見を言うことも必要かと思い、話す。

「陽葵ちゃんも大学に進学して、いずれは就職するときが来る。社会に出たら人を好き嫌いで分別することはできないんだよ。もちろん気の合う仲間といるのは心地よい。でも気の合わない人とも適度な距離感を持って付き合いをしていかないといけないんだ」

「なんだか社会人って大変だね。勉強だけじゃなくて、そういう社会のことも先生に教えて欲しい」

陽葵はじっと見つめてくる。

今の俺には、それを真正面から受け止めることはできない。自分だって一人前の社会人じゃないって自覚があるからだ。

入試まで秒読みになってきたある日、陽葵が言う。

「なんだか最近の先生は、私と距離を取ってるよね?」

「そうかも知れないね」

わざと冷たく返す。

「やっぱり先生には、高校生の私を見守って欲しい」

「恋愛感情抜きなら、いつだって誠先輩を通じて見守ることはできるよ」