三 歯車
玄関では母が大の字になって眠っていた。それを物のように跨ぎ、服を着替え、台所の蛇口から出る糸ほどの水で顔を洗った。
ついでにアスピリンをもう一粒噛むと、トイレに行儀良く並んだバケツのうち、二つを持ち出した。
これからが本格的な朝の儀式だ。
歪な階段のみが移動手段の高層住宅では、毎日大渋滞が起きる。この時間帯はとくに忙しなく、通学中の子供たち、中央広場の集会所に向かう老人、家事に奔走する女たちが道を譲りながら行き交う。それに加わるのは面倒ではあったが、社会の支柱になった気がして嫌ではなかった。
共同給水場。毎朝、ここで水を汲むのが習慣だった。広大なコミュニティーに三か所しかないそれは、組合費を払う者だけが使うことを許されている。
それ以外の者はどうするか。濁った井戸水を使うしかない。
ここは住民の社交場になっていた。さして広くない空間で、洗濯や皿洗い、行水をする者たちが情報交換という名の井戸端会議をしている。そのほとんどが他人を貶めて劣等感に蓋をする、卑しい典礼だった。
当然、あたしには無縁であり、群れを見るだけで悪寒が走った。だから誰とも関わらない。
むしろ、あたしを空気だと思って欲しい。でも、彼らの臭覚は異常に発達していて、いかに異端者を嗅ぎ分け、網を張るか。その為に日々、進化していた。