別れの時は近い。何か、言わなければ。でも何を?
「それじゃあね、葵さん。色々ありがとう」
窓を開けて言った涼子は手を差し出した。どうやら握手を求めているらしい。断る理由はないが葵は悩んだ。今すべきことは手を握り返すことだろうか、と。
「葵さん?」
いつまで経っても握手を返さない葵を見て涼子が首を傾げる。それを見て腹は決まった。
「あの、涼子さん」
「え、な、なぁに?」
思いのほか大きな声が出て涼子を驚かせてしまった。
「車に……気を付けてくださいね」
はらり。あるいは、ほろり。その瞬間、音もなく涼子の頬を小川のせせらぎのような涙がひとすじ伝った。
「あ、あら? なんでかしら。急に涙が……ごめんなさいね、こんな姿」
「いえ……」
葵は思う存分泣いてくださいと願った。決壊した川を無理に堰き止めようとすると別のところに溢れ出て被害が拡大する。だからあるべきところに流れきるまで自然に任せるに尽きる。
とはいえこのままでは忍びなく、葵はバッグから取り出したハンカチを差し出した。水色で縁取られた白地の、隅にワンポイントでひまわりが描かれている女物だ。
「これ、使ってください。返さなくていいので」
「え、でも……」
「いいんです。涼子さんに使ってほしいんです」
涼子は涙を流したまま訝しげな表情を浮かべていたが、含みのある態度からただならぬものを察したのか、おずおずとハンカチを受け取った。
「さっきの言葉、なんだか凄く懐かしい気がしたの。お父さんに言われたんだったか、それともお母さんだったのか――」
「違うんです」
しまったと後悔した時にはもう遅い。
「葵さん、違うって何が……?」
戸惑いがちに尋ねられるも上手く説明できず、葵は「いや、その……」と言葉尻を濁すことしかできない。すると運転手を待たせるのも悪いと思ったのか、それとも気を利かせてくれたのか、涼子は「また近いうちに会いましょうね」と締めくくり、少女のように微笑んだ。
これが東が守りたかった、残したかった顔なのだと思うと胸に込み上げるものがあるが、その想いの名がなんなのか説明できない己の語彙力を葵は恨んだ。知らない、分からないというのがこんなにも憐れなことなのだと理解した時には既にタクシーは去っていた。
次回更新は3月7日(土)、11時の予定です。
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