【前回記事を読む】最期まで妻には秘密にしておきたかった。手で口を覆うと、痰に血が絡む…「肺がんなんだ…」しかも末期だった。

Case: A 夫の選択

涼子が目を覚まして数日が経ったある日、葵は退院の支度をしている彼女のもとを訪れた。

「こんにちは涼子さん。調子、良さそうですね」

「あぁ、いらっしゃい葵さん。うん、おかげさまでこの通り。傷もほとんど残らなくて良かったわ」

そう言って涼子は傷があったであろう側頭部のあたりを撫でた。髪の長ささえろくに把握できないほどだった以前の包帯の巻かれようと比べるとその差は歴然だ。

「あの時葵さんたちがいなかったら私、どうなってたか……」

「いえ、そんな。私は大それたことなんてしてませんよ」

「そんな謙遜しないでよ。葵さんは紛れもなく私の命の恩人なんだから」

命を差し出した東がこの世界から消えたことで周囲への影響はどうなったのか、葵は詳細を知らない。

今回の事例では、たまたま事故現場に遭遇した葵が周囲の力を借りて応急処置と救急車の手配を行ったため、涼子は大怪我を負ったものの命に別状は無い、という結果に落ち着いたらしい。

葵は観測者のような役目を半ば無理やり押し付けられたためこのような形で涼子に関与することとなった。余談だが車を運転していた高齢ドライバーが亡くなったことに変わりはなかった。

そして、涼子は何も知らない。憶えていないのではなく、知らない。愛する夫と息子がいたことを。

「さてと、荷物の整理も終わり。忘れ物もなし。あとは我が家に帰るだけね」

 我が家。今の彼女にとって、我が家とは一人暮らし向けの賃貸マンションである。葵は数日前、課長に無理を言って東の家があった場所へ連れて行ってもらった。そこは別の家族が住んでいるわけでもなく、ただ単に更地だった。

「ねぇ、葵さん」

「あ、は、はい?」

「改めてお礼をしたいんだけど、良かったら今からお茶でもどう?」

断られることを想定していないだろう真っ直ぐで純真な瞳を葵は正面から見られなかった。

「すみません。せっかくですけど今日はこのあと用事がありまして……」

「あらそう、残念ねぇ。それじゃあまた都合の良い日があったら教えてもらえる?」

「はい。その時は是非」

葵は内心で、きっと今後も何かと理由をつけて涼子の誘いを断ってしまうのだろうと思った。そうやって自然とフェードアウトしていくのがお互いのためだと信じて。

その後、退院手続きを終えた涼子に付き添ってロビーまで向かい、タクシーを待つ間、葵は涼子に送るべき言葉を悩んでいた。今日に限って配車が遅く感じられる。

ややあってようやくタクシーが姿を見せた。銀色の車体が滑り込み、後部座席のドアが開く。