【前回記事を読む】「……行ってらっしゃい」いつもならその言葉を受けて扉を開ける。だが、夫の様子が普段と違う…今日はそうしなかった。
Case: A 夫の選択
「帰ったら話がある」
「話って……今じゃ駄目なの?」
「あぁ、大事な話なんだ。俺にも、キミたちにとっても。とても重要なことだ」
「じゃあせめてどんな話なのかだけでも教えてくれない?」
出会った時から変わらない迷子になった少女のような瞳を向けられると途端に思考が真っ白となる。つい先刻ヒステリックになりかけた女とは思えない。康介はその瞳に何度も負けてきた。
「俺が掛けてる保険と涼介の学費のことで少し……」
康介はそれだけ言って扉を開け、涼子の視線から逃れるように背を向けて足早に歩きだす。だが駅へ向かう途中でタバコを忘れたことに気が付くと、今まで堪えていた溜め息を我慢することができなかった。
それだけに留まらず、冬場で乾燥した空気のせいで咳き込んでしまった。一度咳が出るとしばらく止まらない。いつからか、痰もからむようになった。時にはそこに血が混ざることも……。
(生きるということはこんなにも……難儀なものだったか)