【前回記事を読む】真冬の夜、汗だくで戻った老人が見た“変わり果てた我が家”――妻と孫はまだ中に? 次の瞬間、彼は迷わず……

Case:B 元・医者の選択

全身濡れネズミとなった良三は「待ってろ若菜、千代」と呟き、水を止める。それから防塵マスクと飛行眼鏡を装着したのちに玄関を蹴破るように開け放った。それは気合を入れるためか、はたまた景気付けか。再び姿を現した良三に山城は目をひん剥いて驚いている。

「良ちゃん、その恰好……馬鹿なことは考えんさんな! もうすぐ消防の人が来てくれるから!」

「そんなもん待ってられるか!」

山城の制止もむなしく、良三は二階へと駆け上がった。火事の規模を考えれば扉を開けてもバックドラフトに見舞われる可能性は低かったが、良三はいったん五センチほどだけ扉を開けて安全を確認したのち、室内に飛び込んでいく。それが山城の見た良三の最期の姿だった。景浦が現場に到着したのは直後のことだった。

威勢の良さとは裏腹に室内は予想以上に黒煙が支配していて視界が効かず、良三の歩みは途端に鈍くなった。小隊長の遺品である飛行眼鏡もたちまち煤で見えづらくなる。それでも裸眼よりは数段マシだ。

それに家の間取りは頭に入っている。防塵マスクもしっかりと仕事を果たしているため、少しでも綺麗な空気が残っている床を這うように進めば呼吸も続きそうだった。着用した革手袋のおかげもあって熱もほとんど感じない。

千代と若菜のどちらの元へ向かうか迷ったのは一瞬。

良三はまず若菜の部屋へと照準を定めた。火の中を数歩進んで古びた襖を開けると予想以上の黒煙が良三を襲う。しかし戦時中の経験から冷静に対処した良三はレンズをぬぐい、椅子に座ったまま机に突っ伏している若菜を確認した。傍らにはストーブに覆いかぶさっている毛布が。

火の元はこれだ。勉強中にうたた寝をした若菜を想って千代が毛布を掛けたのだろう。それがずり落ちて運悪くストーブに……。若菜が寝落ちたら毛布を掛けてやってくれと千代に伝えたのは良三だ。彼はそれを猛烈に後悔した。

だが火がついてしまえばいかにうたた寝していようとも気がつくはず。そう思った良三は窓に目をやり、悔恨の念とともに頭を抱えた。換気をせずに石油ストーブを使い続ける。年老いた良三や千代とは違い、若くて体がしっかりと動く若菜が逃げ遅れた理由が薄々分かってきた。