世情は不穏の極にあり、裕福な公家ならば、警護のための侍を雇っていた。
さすがに、警護の者の前を釣り竿を持って出かけるのははばかられる。それで竿を切って刀袋に入れて、釣り場で組み立てる。これが本邦初の継ぎ竿となる、らしい。
振り出し竿は、すべてを入れ子にして一本に仕舞い、振り出せば一本の竿となる。江戸時代にも作られてはいるが流行(はや)らなかったようだ。技術的な問題もあるだろうが(グラスファイバーが出現して以降は振り出し竿が主流となった)そこまでの便利さは必要としなかった。そういう事だろう。
並継ぎ、印篭継ぎ。四本継ぎ二本仕舞い、六本継ぎ三本仕舞い。
一本の竹からだけではなく何本かを、さらには種類の違う竹をも組み合わせる。幾多の竿師が工夫を凝(こ)らし、切磋琢磨しながら、世界に類を見ない優美で強靭(きょうじん)な和竿を作り上げていった。(実際に、明治、大正、昭和初期と、和竿は日本の主要な輸出品の一つとなっていた)
釣雲もそんな竿師の一人に竿作りを習った。師事をした訳ではない。人に頭を下げられない釣雲は弟子にはなれない。釣り仲間の竿師のところに入り浸って、勝手に竿作りを遊んだ。
だが釣雲、武芸学問には手を抜いても、遊びには決っして手を抜かない。数年で竿師も舌を巻く腕前となった。
「釣(つ)り人(にん)なら、仕掛けはてめぇで作るよな」
ある日、釣雲が長い顎をなでながら太平に聞いてきた。
「はい、もちろんです。だってですね」
釣れなければ「なぜ」を釣り人は考える。そして、次のために色々を工夫するのだ。
「仕掛けの天っ辺は何だ?」
「はい、難かしいのは鯛のてんや鈎でしょうか。あ、黒鯛のふかせ仕掛けもですね」
「ばーか。その仕掛けの上の上、天っ辺は何だって聞いてんだよ! 竿だろうが。竿がなきゃ釣りになんねえだろうが!」