【前回記事を読む】大塩の首をこの目で見たいと言う大御所・徳川家斉に謁見するため、カイは田沼意留とともに“一介の旗本”として江戸城に乗り込む
鼠たちのカクメイ
結
廊下に出ると奏者番以外にも数名の屈強な家臣たちが待ち受けていた。カイを中央にして一行は粛々と松の廊下を進んでいった。ただ長袴という大仰な衣装のため、その歩みは牛のように遅かった。その際何人かにもすれ違う。
将軍宣下や年頭拝賀など公式行事には、百名を超える幕閣・大名を収容する江戸城表の大広間。しかし奏者番が襖が開けると、そこには十名にも満たない人間しかいなかった。非公式行事であり、秘匿事項ということなのだろう。
三十畳超の上段の間に御簾が見えた。その裏には大御所・徳川家斉がいるはずだ。一段下がった中段の間には水野忠邦と弟・跡部良弼、その他顔も知らない老中や奉行たちが畏まっている。カイは意留から習った通り廊下から下段の間に膝を進め、一枚目の畳の縁の前でひれ伏した。
「大御所様に名乗りおろう」
奏者番の誘導に従って、カイは額を畳にこすりつけたまま申し上げる。
「安房国旗本小普請役、男谷家長男・義邦にございます」
沈黙。くそ、無視かよ。あ、いやこれが天上での礼儀作法ってことか?
「此度、男谷なる者の大御所様に拝謁する旨……」
奏者番が説明しかけた時だった。
「よい!」と、御簾の裏から声がした。
「めんどくさいことは省け。早う見たい」
誰も口を挟まない。
「それに遠くて聞こえん。苦しうない。もそっと近う」
御簾の中で手招きしているようだ。察したカイは膝歩きでにじり寄るが、どこまで進んでいいのかわからず中段との段差まで来てしまった。その段差も跨ごうとした時、中段の間の忠邦が慌てたように手で制止した。跡部に至っては両手を広げて「そこまで。そこまで」と口の中で叫んでいる。まるで狂言師みたいだ。心の中でクスリと笑う。