【前回記事を読む】大塩の乱から三年後、大塩の首を獲ったという者が現れた。彼が持ち込んだ甕の中には薬品に漬けられた大塩らしき男の首があった
鼠たちのカクメイ
結
案の定その日の午後に、祐筆が本丸まで出向いて、忠邦は西の丸に呼び出された。すでに大御所となった家斉が御簾の中にいる。そして側に侍らせているのは、間部と意留だった。忠邦に苦い記憶が甦る。この雁の間風情、あとで調べたら家斉公の最側近だった若年寄・田沼意正の嫡男というではないか。大方後釜を狙っておるのだろう。
「首座殿。公務にご多忙なところ、ご足労頂き恐縮です」
西の丸老中は格で言えば忠邦の首座よりは下がるため間部は慇懃な挨拶をし、それから先程遠山から聞いた話を改めて説明した。
「首座殿はどう思われますか?」
「真贋のほどが測りかねますゆえ」
「ごもっとも。ゆえにその者を町奉行に紹介した田沼意留も同席させ、仔細確認してみました」
傍らで低頭する意留をしゃくって示した。
「その者は田沼の遠縁に当たる旗本で、と申すなかなかの若武者。されば、信用に値すると僭越ながら申し上げます」
意留の釈明を聞いても、先入観を持つ忠邦は拒絶反応を禁じ得ない。この男、また何かを企んでおるのではないか?
「ただこの若武者、旗本とはいえ未だ二十人扶持。此度突飛な行動をとったのも、おそらくは出世のための先走った所業。でき得れば、公方様の前で逆賊の首をご披露したい、などと申しておりまする」
なんと。家慶様の前に大塩の首を差し出すと言うか。忠邦の警戒心が頭をもたげた。
「面白い! 家慶ではなく、余が会おう」
忠邦のみならず間部までが驚いて、御簾を窺った。
「お、恐れながら」と、忠邦が口をはさむ。
「おんや。お主は反対か? 余がお主の頭越しに若年寄や雁の間の者らを重用するのが、そんなに気に食わぬかな? 老中首座どのは」
「いえ、滅相も。ただなにぶんにも真贋の程が……」
「だから、その真贋をはかればよかろう? 首実検となれば大塩を知る者が要るな。お主の弟の跡部何某とやらも同席させよ。忘れもせぬ顔のはずじゃからな」
まさかとは思うが倹約令の件を未だに根に持って、私に恥をかかせたいだけの茶番劇なのではあるまいか?だが、と忠邦は思い直した。
突然の提案だが、現将軍の家慶に引き合わせるよりはよいのかもしれない。私の後見人を厄介事に巻き込むぐらいなら、大御所に言い出しっぺの責任をとってもらおう。不祥事が起きても困るのは間部、そしてこの腰巾着の田沼なのだから。
「御意」
あの日以来忠邦は、この老人に逆らうことをやめた。本人の言う通り、大御所が薨ってから己の政を全うしようと決めた。さすがにあと十年も生き長らえることはあるまい。