【前回の記事を読む】医者は患者の主観的「イタイ」をしばしば軽視・無視して「客観的な異常」の発見に精力そそぐが、患者が求めているのは……
第3章 主観と客観〜痛みの診療における観点〜
痛みの医療における主観と客観
私たちが病院にかかるのには、ふたつの場合があります。ひとつは心《社長》が「体の異常を主観的に気づいた」場合です。もうひとつは健康診断、人間ドック、他人の観察1などによって「体の異常が客観的に発見され、心《社長》が知った」場合です。このように病気は“主観的な病気”と“客観的な病気”に大別できます。
医者の医療に対する態度もふたつに大別できます。主観的な身体が知覚する異常体験を治そうとする「主観主義の医療観」と、客観的な身体の異常を発見して治そうとする「客観主義の医療観」です。そして、痛みの医療ではその両方の観点が必要なのです。
主観的な病気
近代以前、病気の多くは「主観的な病気」でした。高血圧、椎間板ヘルニアという病気はありませんでした。あったのは血圧の上昇による「脳卒中」という症状、腰椎椎間板のふくらみによる「腰痛」という症状だけでした2。
主観的な異常を自覚したとき、私たちはまず様子を見ます。「なんかヘンだが、そのうち消えるかもしれない」と考えます。この判断はとても合理的です。
実際に日々、心が気づく主観的な異常の多くは一瞬〜数時間で消えてしまいます。つまり「非臨床的症状」、すなわち「病気として治療する必要がない症状」です。
私たちが「これはまずい。病院に行かねば」と考えるのは、異変が何日も続いたり、徐々に悪化していく場合です。こうなると心《社長》はいよいよ不安になり、「原因は何だろう?」と理由を知りたくなり病院に行くわけです。
心《社長》は警報が鳴り続けると、それまで気にも留めなかった自分が知らない《事業部》の異変を知らされ心配し始める、というわけです。
痛みを症状とする病気は一義的に主観的な病気です。主観主義の医者は症状を緩和させる「対症療法」を重視します。主観主義の医療観の治療対象は心です。
痛み医療では痛みが減り、なくなることを主目標とします。主観主義の患者さんも「とにかく痛みをまずとってほしい(原因はわからなくてもいいから)」と強く訴えてきます。そんな患者さんに原因追求のための検査ばかりしていたのでは叱られてしまいます。