忠邦が退出したあと、残った家斉と意留との間にはこんな会話があった。
「畏れながら、大御所様。これに告発された者達の処遇は如何様に」
「処遇? 何もこれしきのことで、波風を立てることもあるまい」
家斉は過去に田沼意次や水野忠成という、贈収賄を奨励した老中を抜擢している。言わずもがなの回答であろう。
「し、しかし、それでは大義が立ちませぬ」
「雁の間よ」
「……」
「大義とは、余のことじゃ」
であろう? と、日本史上最長の権力者が事もなげに笑ってみせる。意留は慄然とした。
(意義、すまぬ)
勘当したとはいえ、実の弟に一度は確約したことだった。朱子学で言うところの「悌」を違えた。私こそ大義を果たしたとは言えない。田沼意留は、長い悔悟の念を曳きずることになる。
江戸城の密室の中で権力闘争が繰り広げられている頃、市井では「大塩生存説」なるものが流布していた。
これは、美吉屋の離れから発見された大塩父子の焼死体とされるものが、爆裂によって判別不能になっていたこと。また事件関係者の数が膨大で、奉行所の吟味が遅々として進まず、公開処刑などのお仕置きが一年以上できてなかったこと。さらには庶民たちの願望が合わさって生まれたものだ。
大塩の乱に触発された越後国(現・新潟県)柏崎では、同じ陽明学者である生田万による乱も勃発し、連鎖反応のように全国で一揆や打ちこわしが始まった。
さらに同年に起きたのが「モリソン号事件」。これは日本の漂流民を港に届けに来た米国の商船モリソン号を幕府が領海侵犯として砲撃したという事件だが、これに絡めて「幕府に恨みのある大塩と米国が黒船に乗って復讐しに来る」という突飛な話まで登場した。
こんな戯言がまことしやかに噂された背景には、やはり大塩一党への同情と幕府への反感が根深くあったということだろう。