【前回の記事を読む】明智光秀は本能寺に向かうにあたり京都の愛宕神社に参籠。三回もおみくじを引いたと言われ、それで戦に負けた?!

第2章 一苦一楽 〈二〇〇五年夏〉大山諭、影の主役

紀元前八世紀ごろに活躍したギリシアの吟遊詩人(ぎんゆうしじん)ホメロスの『オデュッセイア』の話だそうだ。

「あんたの父さん(胖(ゆたか))が小学生のころ、誕生日に少年少女世界文学全集を贈ったのよ」

「あ、それでか。小学校五年生のときお父さんと一緒に九州旅行に行ったら、そんな話をしていた」。機織りつながりですっかり王妃に自らを擬するかのような大伯母に、よもや求婚者が押し寄せたと想像するのは絶望的に難しい。そこで、諭は「ヒデちゃんも戦争から帰ってきたのかな」と訊いてみる。

「さっぱり消息が分からないの。彦星にはなかなか逢えないものなのね」。和裁をなりわいにしている彼女は、今度はすっかり織姫になったつもりでいる。愛宕神社と李白と織姫とペネロペイアの神通力は彦星に届くのだろうか。

その夜。手芸の手をやすめて、もの思いにふける松子。「あれ、おととい、お見舞いに来てくれたの、誰だったかしら、お礼状を書かないと」。最近起きたことが思い出せない。そのくせ、なぜか、半世紀も前の記憶が呼び覚まされる。

その数分後。夢か現うつつか。織姫はいつの間にか「お通(つう)」になっていた。

彼女が戦前に傾倒(けいとう)した吉川英治の『宮本武蔵』のヒロインお通は武蔵を恋い慕う。ところがすれ違いの連続だ。巌流島(がんりゅうじま)の決闘に向かう飾磨(しかま)の浦。お通が慕っても、すがっても、めぐり合えない。

学生時代、すっかりお通に感情移入していた松子は切歯扼腕(せっしやくわん)していた。あたかも、自らをお通に、ヒデちゃんを武蔵になぞらえるように。