「こうしておかないと『あるはずのものが消えている』と後でクレームをつけられてはかなわないからね」
彼は念を入れて二、三枚撮影した。
「あなたは発想が暗いわね。折角太陽の国に来たっていうのに」
「忘れちゃいけない。ここはイタリアだ。間の抜けた日本人夫婦が身に覚えのないことでトラブルに巻き込まれるのは御免だ」
「……というより、どこへ行ってもあなたは〝ブン屋根性〟が治らないわね」
妻は揶揄(やゆ)して言った。だが夫は彼女が誤解していると思った。彼はただ単にブン屋根性で物事を見ているのではない。元々子供の時から好奇心は人一倍強かった。
それが長じて、好奇心の裏側、人間の心の闇の部分に強く引き付けられるようになった。そもそも彼ら夫婦を結び付けたのは彼の猜疑心が動機だった。さもなければ彼らの人生は決して交わることはなかっただろう。
「職業柄だ。それでメシを食っている」
「仕事のことは忘れる約束だったわね」
バッグにはタグが付いていて、『ラ・ジオコンダ』という名前を記したカードが貼り付いている。カードには店のマークなのか、組み合わされた手の絵も付いている。夫はカードも撮影した。
紙筒の中にはPVHと記された紙切れもあった。紙には糊の跡があり、その絵から無理やり剥がしたような感じだ。PVHのPは女の名前だろうか。Paola? Penelope? Pの付く女の名前はそう多くはない。
女が現れないので二人は仕方なく空港の遺失物係に女のバッグを届けた。そして大急ぎで乗客を満載しドアが閉まる直前の空港リムジンに飛び乗った。
いよいよこれからフィレンツェの旅が始まる。
花の聖母大聖堂
九月六日
季節は九月。空は晴れ。今年の夏はこれまでにない酷暑だった。ヨーロッパ中が熱波に襲われた。やっとその地獄を脱し、これからが一番いい季節だ。しかし九月になってもまだイタリアは暑く、そして相変わらずフィレンツェの町は観光客だらけだった。
新婚の松野忠司(ただし)・真世(まよ)夫婦は普通の観光客が取るコースを踏襲することにした。彼らがイタリアを新婚旅行先に決めた時に、二つの選択肢があった。イタリア半島全体を鳥瞰(ちょうかん)し、北から南までざっと見て回るコースと、一か所を起点にその周りだけを丁寧に見るコースである。
「全部見て回ろうとしたら、結局何も見ないで終わることになる。私はディープなイタリアが見たいわ」と言ったのは妻の真世の方だった。
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