【前回の記事を読む】広場に並んで寝転がり、夜空を見上げた。夫に肩を抱かれ、手をそっと握りしめられ、心の底から充足感が…
第一章
ラ・ジオコンダ
九月八日
忠司がほっとしたことにはサバティーニは強い訛りはあるものの、そこそこに英語が話せた。忠司はイタリアに着いて以来、いかにイタリア人が英語に弱いか思い知らされていた。どうやらイタリアの英語教育のレベルは日本と変わらないらしい。
「僕は高価な絵画を買うほどの金持ちではありませんが、店先の『モナーリザ』の絵に魅かれましてね。店の名前から察するに、あなたはレオナルド・ダ・ヴィンチに造詣の深い方に違いない。ダ・ヴィンチについて面白い店や話題があれば日本の読者に紹介したい」
忠司は名刺を店の主に渡して日本のデジタルニュースを主宰するジャーナリストだと名乗った。
「この店の動画を日本の美術愛好家に流してもいいでしょうか? きっと色んな反応がありますよ」
美術商は忠司が彼の店のことを日本の動画ビューアーに紹介すると聞くと、やけに愛想が良くなり、かつ雄弁になった。
「店の名前は『ラ・ジオコンダ』だが、残念ながらレオナルドの作品を扱っているわけではありません」と店主は言った。
「レオナルドの作とされている絵はほとんど美術館に収まっていて、市場に出回る余地はゼロと言っていい。でも日本人は大事なお客です。十年ほど前に日本のお客にヴェネチア派の風景画の大作を売ったことがあります。買い手はオーサカの医者だった。大いに宣伝して頂きたいですな。新たな日本のお客を獲得出来れば、店にとってこれほど嬉しいことはない」
店の主はここぞとばかりに、店に掛かっている絵を指で示して、これらの絵は全部本物だと力説した。
風景画に交じって、縦一五センチ、横二〇センチ位の、騎士が竜を退治しているミニアチュアの絵があった。騎士の鎧は黒く、竜は赤い。でも何だか稚拙な絵だ。
「これがルネッサンスの画家の絵ですか?」
忠司が疑わし気に聞くと、店の主は胸を張って言った。
「カルパッチョ作の『聖ジョルジオの竜退治』の絵です。カルパッチョの竜退治の絵は当時大人気でしてね。彼は何枚もこの絵を描いています」
「どうして『モナーリザ』のことを『ラ・ジオコンダ』と言うんですか?」と真世が質問した。店主は答えた。
「あの絵のモデルになった女性が当時のフィレンツェの裕福な商人、ジオコンドの妻だったからですよ」
店主の答えは何やら面倒くさそうだった。おそらくこの種の質問は観光客に嫌というほどされているのに違いない。