「それはすでにカビの生えた説になっていますよ」

突然彼らの背後で声がした。振り向くと新来の客らしい男がぶらりと店に入ってきた。

男は店の主とは顔なじみらしく、親しげに挨拶を交わしている。店の主は男を知り合いの美術愛好家だと二人に紹介した。

男の名はヴィットリオ・スーザといった。名前はイタリア系だがイタリア人には見えない。背が高くてがっしりしている。

灰色のTシャツにジーンズ、服装に構わない男だ。イタリア人は三十歳を越えると禿げが多いが、男の栗色の髪はふさふさして長く、その髪を後ろで無雑作に紐でくくっていた。

両手首から腕にかけて細いペン描きみたいなタトゥーをしている。どう見ても高額の美術品を購入する客には見えない。だがイタリア語も英語も流暢だ。

「それじゃ『モナーリザ』のモデルは誰なんですか?」

忠司が聞くと新来の男は言った。

「近年のレーザー光線や顔料の研究から今まで知られていなかったことが分かってきましてね。確かにレオナルドはフィレンツェの裕福な商人、ジオコンドの妻の肖像画を描いたことになっている。

だが最初にキャンバスに描かれていた女性の肖像は我々が今ルーヴルで目にする肖像画とは違ったものだった。体の向きは同じだが顔立ちは別の女性のものだ。

ところが何が理由かは分からないが、レオナルドは絵の注文主、すなわち商人のジオコンドに絵を買い取らせることに失敗した。

そこで肖像画を消して、上塗りして別の女性の肖像画を描いた。一説では、あるフィレンツェの名門出身の貴族が愛人に子供を産ませた。

だがその女性は死に、子供は父親が引き取って自ら育てることにした。そして亡くなった女性の肖像画をレオナルドに描かせて、母のいない子供の慰めに与えようとした。……ところがその貴族は政争に巻き込まれて失脚し、子供も死んで、絵の買い取り手がなくなった。

レオナルドは仕方なく、その絵を死ぬまで手元に置いていた。それが『モナーリザ』だと言うんです」

「あの絵が言わば売れ残りだったとは、驚きですね」

「そうとも簡単には片付けられない……」

新来の男は首を振って、

「レオナルドは会ったことのない、すでに亡くなっている女性の肖像を描くにあたって、彼の心の中の理想の母の像を描いたのではないでしょうか。彼は生まれた時から母親の愛を知らず、ほとんど会ったこともないにもかかわらず、いや、それだからこそ一生マザコンだった。

喪服を着て謎の微笑を浮かべている若い女性……それは彼自身の理想の母、聖処女そのものだった。彼はいつも金に困っていたが、本当にあの絵を手放したくなかったのかも知れない」

 

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