【前回の記事を読む】空き巣はタンスや引き出し、妻のバッグを引っ掻き回したが、貴重品を盗らなかった。何か別の目的が?
第一章
花の聖母大聖堂
九月七日
町の中心、カンポ広場は中世そのままの姿を残している。町は五百年経っても何も変わっていない。変わらないことの重さ、そして確かさ。
イタリアのある歴史家は言っている。
――ルネッサンス期のイタリアは変わることのない完璧な一つの世界観を作り上げた。疑う者はシエナのカンポ広場を見よ。
もう一つ見逃せないのは古式に則った競馬、パリオだ。この競馬は夏の七月と八月に計二回行われる。
シエナの町はパリオと、それを支える町内会〝コントラーダ〟の活動で一年が動いていると言っても過言ではない。実際のパリオが無くても、町はパリオの為に呼吸している。町は十七の地区に分かれ、それぞれのコントラーダがあり、一年中競馬の費用をひねり出すべく活動している。
馬一頭を飼うのに年間日本円にして一千数百万円以上が掛かるが、どの馬がどのコントラーダに当たるかはくじ引きで決められ、試合直前まで分からない。
コントラーダのシンボルが凝っていて、〝豹〟、〝狼〟は分かるとしても〝芋虫〟、〝カタツムリ〟、〝カメ〟という、スピードからいくとどう見ても勝てそうもないものが旗印だったりする。町のあちこちにそれらの動物を象徴する紋章(アラルディーカ)がくっついている。残念ながら今年の競馬は終わっており、彼らは競馬の様子を想像するだけで我慢する他はなかった。
彼らはレストランに入り、シエナの名物を食べた。一皿目はシエナ風パスタ、ピチ。オリーブオイルとチーズソースのパスタだ。
「何だか日本のうどんに似た食感ね」
「そうだな、これなら普通のスパゲッティの方がうまい」
彼はスマホのメモ帳に、〝ピチ――シエナ風パスタ、日本のうどんに似たもの〟と記した。メインはトスカーナ風チキンのから揚げ。もちろんキアンティのワインも忘れなかった。
イタリアの九月はまだ日の入りが遅いので、新婚夫婦は夜の月明かりのカンポ広場を見ようとシエナに一泊することに決めていた。夕食後二人は夜のカンポ広場を散歩した。すり鉢状の広場は月明かりに照らされ、市庁舎の上に立つ〝マンジャの塔〟がライトに照らされて浮かび上がっている。
二人は広場に並んで寝転がり、夜空を見上げた。夜の冷気が広場に入り込み、塔の上には月が煌々と輝いている。夫は妻の肩を抱き、手をそっと握りしめた。
ここにこうしていられることの平安と、心の底から湧いてくる充足感。そんな魔術のような時間をこの広場は与えてくれる。