【前回の記事を読む】やっと叶った新婚旅行。しかし彼らの隣に座った一人の女性との出会いによって今回の旅が一変することに…
第一章
見知らぬ乗客
九月五日
フィレンツェ空港。この空港はローマのフィウミチーノ空港やミラノのマルペンサ空港と違って中規模空港で、乗客も少なめ、通関にはそれほど時間は掛からないだろう。
だが予想に反して早速空港でトラブル――二人が通関の手続きを済ませて、航空荷物受取場所、ラゲージレーンで荷物を待っていた時のことだ。例の茶色の縮れ毛女も荷物の出てくるレーンの傍で彼ら夫婦と並んで荷物を待っていたが、入り口の方に視線をやり、「あっ」と息を飲むような声を出した。
そして急に日本人夫婦の妻の方に向き直り、ラゲージレーンから受け取ったばかりのボストンバッグを「トイレに行きたくなった、ちょっと荷物を見ていて」と有無を言わさず彼女の胸に押し付けて、ホールの奥に慌ただしく姿を消した。
ほどなく彼らの荷物が出て来たが、女はトイレから出て来る気配が一向にない。どこに消えてしまったのだろうか。
新婚夫婦は自分たちの荷物がとっくに着いて、カートに載せ終わっているのに女が一向に姿を現さないので途方に暮れた。自分たちの荷物を引き揚げてからもう二十分以上経っている。
夫は荷物は自分が見るから妻に女子トイレを見に行くように言った。だがトイレから戻ってきた妻は首を振った。トイレにはいなかった。先にゲートに出たのではないか? これ以上ここに立ち尽くすわけにもいかない。
荷物をどこかに届け出る前に、夫はチャックを開けてバッグの中身を確かめた。中身はテニスのラケットと長い紙筒だった。
紙筒の中身を確かめる。キャンバスを巻いたもの。夫はカートの上にキャンバスを広げた。古い年代物の油絵が描かれたキャンバスだ。絵のサイズは大きくなく、縦が六〇センチ、横が四五センチぐらい、それに一・五センチくらいの、釘の跡の付いた木枠の張りしろが付いている。
キャンバスは古いものらしく、茶色に変色して端がほつれている。中世の時代を思わせる衣装を着た女性の横向きの肖像画である。ただし体は斜め前向きで、顔だけが横を向いている。背景は黒く塗り潰されていた。だが額縁を付けたら肖像画としては手頃の大きさになるだろう。
夫はつぶやいた。
「これに似た絵をどこかで見たことがある……でもどこだったか思い出せない」
夫はその絵をいつも携行している交換レンズ付きのカメラで撮影した。絵は巻き癖がついている上に、顔料が蛍光灯の灯りにハレーションを起こすので、妻に協力させて絵の端をつまんで広げた。