「先生。宇津木は、私の手で始末しておきました」
そう囁きかけたのだ。ぎょっとして大井を見ると、気が利くでしょう? と言わんばかりにニコニコ笑っている。
「あのような日和見がいては、士気に関わりますからな」
刀についた血脂を見せる。誰もそんなことは頼んでいない。宇津木は医者だ。軍医として帯同してもらわねばならない人材だった。
だが、今ここで大井を叱責してはそれこそ全体の士気に関わるだろう。平八郎は忸怩たる気持ちを押し殺して「うむ」とだけ答えた。先行き不安な船出なのかもしれない。果たして自分は彼らを制御できるのか?
午前九時。一党二十五名が行列をなし、天満橋を渡った。町人たちが興味津々とその列を見物した。先頭にはあの大塩平八郎がいる。
中盤に鉄砲を肩に担いだ門下生たち。さらに後段には大砲四門(銅製大筒二門、木筒二門)と指揮官・格之助の姿があった。このときの風景は後に絵画に描かれ挿絵に使われている。歴史の教科書で見かけるあの絵だ。
この絵を見る限り、四百以上あるという砲術流派の中で、彼らが習得していたのは中島流と思われる。というのも、重火器として「木筒」を装備していたからだ。これは丸太を二つに割って中をくり抜いた砲身を、縄でグルグル巻きにして架車に固定するという一見して原始的なものだった。
大砲というよりは花火を上げる時に使う大筒に近い。当然金属製の炸裂弾などは発射できず、炮烙という火薬の玉を目標に打ち込む。謂わば特大の火矢と考えた方がよい。木製なので炮烙を四、五発も撃てば使用不能となる使い捨ての重火器だ。
次回更新は4月19日(土)、11時の予定です。
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