その頃洗心洞の講堂には、平八郎と格之助、意義をはじめとする塾の幹部たちが顔を揃えていた。格之助が今朝方判明した事実を報告する。
「脱走したのは河合、吉見、平山の三名です。河合の父親で同心見習いの郷左衛門が半年前から行方をくらましております。おそらく刺客に渡辺殿を襲わせたのもこの男かと」
塾生の目が意義に集まる。なるほど、河合某という若者の顔はどこかで見た気がしていた。野良犬に食われていたあの同心の息子だったか。特に感慨があるわけでもなく意義はただ目を閉じた。
「ま、わしの不徳の致すところやな」
平八郎は腕組みをしたまま、ぼそりと呟いた。仲間の中から裏切り者が出た。少なからずあるはずのショックを塾長はおし隠した。
「事ここに及んでは、計画を中止すべきかと勘案致す」
そう進言したのは塾頭のひとりである宇津木だ。昨年末、平八郎が決起の意思を伝えた時から彼は逡巡しており、脱走者が出たことでさらに動揺していた。
この蘭方医は平八郎の援助を受けて前年冬まで長崎に留学していたため、長らく大坂で飢饉の苦渋をなめ続ける他の塾生とは温度差があったのだ。
「宇津木。貴様、日和ったか」
声高に叫んだのは、塾の中の武闘派・大井正一郎という与力だ。
「日和ってなどおらぬ。ただ決起する以上万全を期すことが……」
「戦に万全などあるものか。臆病者めが!」
喧々諤々。このままでは先に内部抗争が始まってしまいかねない、と平八郎が懸念した時カイが堂内に飛び込んで来た。
「先生! 浅岡の屋敷を探ってみたけど、がらんどうで誰もいなかったぜ。一体どうなってんだ?」
当初の予定は、浅岡家に就任挨拶に来た東西両奉行の暗殺だった。だが、密告を受けて既に敵はそれを回避したということだ。格之助が平八郎にささやきかける。
「父上。出鼻をくじかれましたな。こうなったら大幅に策を練り直すしかおまへんで」
「ですから、ここは決起の中止を!」
「宇津木。まだ言うか!」
また、カンカンガクガクが再開した。カイはまるで子どもたちの喧嘩を見るように唖然としていたが、やがて皮肉な笑いを浮かべ通る声で叫んだ。
「おうおう。侍も百姓も変わらねえな。やっぱ侍じゃ、世の中は変えられねえよ!」
挑発的な言葉だった。大井が振り上げた拳を今度は少年に向ける。
次回更新は4月5日(土)、11時の予定です。
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