【前回の記事を読む】「お父さんは女の人と一緒に暮らしているようだけど」父の職場の女性からそう伝えられ、突然頭を殴られたような気持ちになり…
トカゲ
家に着いた時には、もう日が暮れようとしていた。オレンジ色の光が父の部屋の片隅を心細く染め、置き去りにされた父のマンガが本棚の中で傾いていた。時代遅れの大袈裟な洋服ダンスは、もう他人の匂いを感じることすらできないくらい月日が経ってしまって、役目を失ったハンガーが居心地悪く揺れた。
父の部屋で妙な音の正体は見つけられず、それから父のフリをした妙なものが姿を現すことは、二度となかった。そして、いつしか僕は大人になり、父親というものになっていた。
あの時のことを話すと、母は、
「あれはトカゲだったのかもしれない」
と言った。
母が祖母から聞いた話では、祖母が以前暮らしていた長屋にトカゲというものがいたらしい。長屋には、祖母の他に三世帯が暮らしていた。祖母は内気で断れない性格であったため、みんなそこに付け込んで強引に居ついた赤の他人だった。彼らが、いつの間にかトカゲと入れ替わっていたそうだ。
トカゲは人のフリをするのがとてもうまい。うまいというよりも、その人そのままになれるらしい。ただ、そう誰にでもなりすますことはしない。それに悪さをしたりもしない。
トカゲは、他人の匂いがする部屋を好んで住み着くから、大抵彼らがなりすますのは、疎遠になってしまった身内や、長屋や共同住宅の住人のような、あまり親しくない間柄の同居人だった。だから、祖母の住まいはトカゲにとって都合が良かったそうだ。
祖母は、トカゲが入れ替わったことに何年も気付かなかった。建物が古くなり取り壊すことになって立ち退きをお願いしたところ、トカゲの方から祖母に白状したらしい。
しばらく見なかった顔が、ふいに戻ってきて居つくようになったら、それはトカゲかもしれない。そうしてトカゲは誰かになりすましながらひっそりと生きているというのが、母が祖母から聞いた話だった。
母は、父のフリをした妙な音の正体に気付いていたのだと思う。気付いていながら、トカゲと過ごすことで、僕と同じように父の存在に答えを探していたのかもしれない。
僕の小さい頃に瓜二つの息子は、僕とは違って肩車が大好きだ。わざとらしく揺らすと、キャッキャッと声を立てて笑う。僕の顔が小さな手のひらから熱を感じる度、僕は救われる気がした。僕は、ここにはいない父に、どうか幸せに生きてくださいと思った。この先もきっと、そこに僕はいないけれど、どうか体に気を付けて幸せに生きてくださいと心から願った。
僕はようやく、父という存在に答えを見つけた。