塾が終わり恵比寿駅の前を通った時、いつもなら電車に乗り病院へ向かうために地下鉄の階段を駆け下りるのですが今日は足が止まります。

「行きたい。でも、ダメだと言われている……」

そのまま自宅へ帰りました。

「もしもし、これから病院に来られる?」

夜の20時前。自宅に母親からの電話。

「どうしたの? お父さんに何かあったの?」

「うん? 大丈夫よ。暗いから慌てないで来て大丈夫だから。病院で待っているわね。気を付けてね」

少しの不吉な予感もよぎりながら、急いで病院へ向かいます。地下鉄に乗り込み病院の最寄り駅から病院へ行く途中にある100メートルもないトンネルのオレンジ色のネオンが今夜は不吉な予感を助長させます。

「急ごう、走ろう」とゆっくり走り出し、夜間救急入口をいつものように通り抜け、エレベーターで父が入院しているフロアまで向かい、ナースステーションの前を通り、角を曲がった瞬間足が止まりました。

廊下突き当りの非常階段を示す緑のネオンが大きな医療器具と、泣いている母親を照らしています。

歩みを進め、ゆっくりと母親のもとへ行くと、「亡くなったの。ごめんね」死亡時刻を聞くと到着3分前。あのトンネルを走り切り、病院まで全速力で走っていれば最後に会えたのに!! お見舞いに来ればよかった! 後悔ばかりが繰り返し押し寄せました。

小学校6年生の時のことでした。

昭和が64年で終わったその年。元号が「平成」に移り変わり新しい時代の到来と世間は華やかな気持ちで過ごしていた平成元年5月に父は59歳という若さにして、人生に幕を下ろしました。

昭和4年生まれの父親は戦争を体験し、疎開も経験した一人でした。

終戦を知ったのは今のようにテレビやスマホではなくラジオの放送。モノのない時代。食料も配給制度で欲しいものは買えず、お腹いっぱいに食事を摂ることもできない時代。

テレビも洗濯機も、今では各家庭に必ずある家電製品は一つもない時代。電話さえ、近所の電話回線が引かれている家まで行って通話ができるそんな時代。だから、人と人とのコミュニケーションが密で、人間関係でうまくいかなくてもガマンをしながらやり過ごさなければ生活できなかった時代。

  

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