漁火

智子は実直で潔癖なところがあり、今までも孝雄の参加した漁協主催の親睦旅行先での下卑た出来事を漁師仲間たちが面白そうに話すのを聞く度に嫌な思いをしていた。

そんな話に慣れることはなく、むしろ話を聞く度に智子は夫に対する不信と不愉快さを心の中に蓄積させていったのだった。

「あの男ならさもあらん」

智子はそう思い、主婦から聞いた町の噂に疑いを持つことはなかった。噂が耳に届いた日、智子は待ち兼ねたように漁から帰って来たばかりの孝雄を隣近所に憚ることなく大声で狂わんばかりに詰り倒し、物の飛び交う派手な喧嘩を吹っ掛けた。

美紀は今でもその日をはっきりと覚えている。それは親子三人の平穏な家庭に忌まわしい狂いを生じさせた呪うべき日だったからだ。

黒潮が洗う志摩半島も十二月ともなると風が冷たくなる。短い日が暮れ掛けた頃、美紀は潮の匂いが混じる一段と冷たくなった風に吹かれながら遊びに行った同級生の竹内美智子の家から帰って来た。

「今日はお父さんの誕生日だから、早く帰っておいで。ケーキも買っておくから」

出掛けに母の智子がそう言っていた。遊びに夢中になり、ハッと気づいた頃には外は薄暗くなっていた。少し帰りは遅くなったが、親子三人の楽しいパーティーのことを考えると帰り道の冷たい風も気にならなかった。

「ただいま」

美紀はいつもより大きな声でそう言って家に入ったが、玄関には灯りが点いておらず、夕餉を作る匂いもしていなかった。訝しく思いながら台所に行くと、母が一人台所の椅子に呆けたようにポツンと座っていた。

周りにはまるで大きな地震のあとのように割れた食器があちこちに散らばり、壁際には潰れた箱から無残な形でケーキが顔を出していた。