紳士に成りすます
リプリーは新天地で紳士になることを目指していた。ヨーロッパへ向かう船の中で彼は早速イメージトレーニングを始めた。リプリーは船内にある服飾品の売店で帽子を購入した。「ジェントルマン=紳士」をキーワードに論を進めていく本稿なので、些細なことだがふれておこう。
「服飾品の売店」(角川文庫青田勝訳では「紳士用品販売所」)の原文は“Haberdashery”。イギリス、アメリカの紳士用品店を指す言葉だ。このように用語の選び方一つとっても、リプリーを紳士に成りあがらせようとする作者ハイスミスの意図が読み取れる。紳士は身だしなみが大事というわけで、リプリーは様々なイメージづくりを楽しんだ。
『かぶり方によっては、田舎住まいの紳士(原文country gentleman―引用者註)にも、殺し屋にも、イギリス人やフランス人にも、あるいは、よくいる変わり者のアメリカ人のようにも見える。(中略)いまの彼は、プリンストンを出て間もない、不労所得のある青年だ』(本書四九頁)
リプリーがイメージしたのは、「ジェントルマン」ではなく、「カントリー・ジェントルマン」(註3)だったことに筆者は注目する。リプリーにとって両者は決定的に違う。どういうことか?
先に引用したトクヴィル『旧体制と大革命』によれば、アメリカ人の言葉の用法では、すべての市民が「ジェントルマン」と呼ばれていた。だからアメリカ人リプリーにとって「ジェントルマン」とは、現実のアメリカ社会で例えれば、テレビのバラエティ番組のホスト役がお茶の間に「レディース&ジェントルメン!」と呼びかけるときのあの「ジェントルメン」の一人なのだ。
それに対して「カントリー・ジェントルマン」は、田舎=地方に広大な土地をもち、広大な屋敷に住む紳士のことであり、イギリスはじめヨーロッパ各地で歴史的(何代にもわたって)に形成された社会階層である。
先述の引用に『不労所得のある青年』とわざわざ断り書きがある通り、地主(=働かない)という正統派紳士になることをリプリーが目指していたことに注意しておこう。