第一部 トム・リプリー論

1 『太陽がいっぱい』―詐欺師の「才能」

トム・リプリーの「タレント」

もう一つ筆者は指摘しておきたい。料理ができてワンマンショーもできるリプリーは、現代日本を席巻する「マルチタレント」を彷彿とさせる存在だ。

このリプリーの「タレント」こそは、いまや日本でおなじみの言葉となった「タレント」や「マルチタレント」へとつながっていく才能なのだ注1)

作者ハイスミスは、リプリーの描写を通じて、生涯一つの才能や技術や芸を磨いていくプロフェッショナルとは別の「タレント」の在り方を読者に提示した、と筆者は考える。

彼女は、複製技術が蔓延する近現代社会では、才能の発揮の仕方には様々なかたちがあること、リプリーのようなマルチな才能をもった人々が成りあがることができること、を本作で描こうとした。

なぜイタリアへ向かったのか

邦訳書のタイトルの考察に移ろう。『太陽がいっぱい』というタイトルは、アラン・ドロン主演映画のフランス語原題“Plein Soℓeil”に由来する。

リプリーが向かった先はディッキーのいるイタリアのモンジベロ(実在する南イタリアのリゾート地ポジターノをモデルにした架空の町)だ。

作者ハイスミスがイタリアをリプリーの目的地としたのは、のちに彼が正統派紳士へと成りあがっていくプロセスと無縁ではないと筆者は考える。どういうことか?

イタリアは、何よりもまずヨーロッパ文明発祥の地の一つであり、ルネサンス発祥の地でもあり、ヨーロッパ的教養を身につけることができる格好の場であった。

近代のイギリスには、イギリス紳士の息子たちが、ジェントルマン教育の一環でイタリアおよびフランスに遊学する「グランド・ツアー」の習慣があった。また、ゲーテの『イタリア紀行』に代表されるように、ドイツ人にとってもイタリアはあこがれの国である。

ヨーロッパ人には、光は南欧から射していたのだ。この場合の「光」は、太陽光線だけでなく、歴史の重みや、「光」を受容する側の人々のあこがれにも由来するものがあった。

イタリアは田舎が美しい国でもある。『太陽がいっぱい』でリプリーは、事情聴取にやってきたイタリア人警部が、所在がすぐわかるよう田舎ではなく都会にいてくれと彼に頼んだときに以下のように応えた。

古代ローマ帝国の栄華の象徴。