第一部 トム・リプリー論
第一章 コンマン&ジェントルマン
―アメリカン・デモクラシーに背を向けた男トム・リプリー
序論 ジェントルマンに成りあがった男
トクヴィルのこの見方に対し、吉田健一氏は先に引用した『ヨオロッパの世紀末』の中で、日本に導入された「紳士」という言葉の歴史についてその歪みを指摘した。
『それ(=紳士―引用者註)は自由、平等を愛し、酒も飲まず、たばこを吸わず、女を丁寧に扱い、謹厳そのもので、それでも人間かと思われる代物であり、その禁欲的な面が儒教で育った当時(=明治―引用者註)の日本人の好みに適ったということは解っても、
日本の士というのが人間を人間たらしめる生きた観念である点でいずれもヨオロッパの十八世紀の産物である英国のgentry、あるいはフランスのhonnêtes gens に呼応するものであるのに対してこの紳士というのはそのどれでもないためにその原語も明らかでない。
しかしとにかくこれが十九世紀のヨオロッパで人間らしい待遇を受けるのに誰もが着けていなければならなかった仮面であることは紛れもなくて、そうした外観だけから言うならばヨオロッパの十九世紀というのはgentlemanもhonnêtes gens もいない紳士ばかりの時代だった』(前掲岩波文庫七三︲七四頁)
一九世紀以降のヨーロッパの歪みは、自由や平等や民主主義といった価値観に基づく諸個人の生き方をも歪めてしまった、したがって、成りあがって紳士となった人たちは仮面をつけて生きることになった、というのが吉田氏の見解だ。
リプリーは、まさしくその歪みの体現者だ。これから論じていく三作品で描かれているのは、コンマン(詐欺師)でありながらジェントルマン(紳士)の仮面を着けたリプリーが、課題に立ち向かい、その課題を歪んだかたちで解決していく姿であった。
1 『太陽がいっぱい』―詐欺師の「才能」
トム・リプリーの「タレント」
『太陽がいっぱい』の二つのタイトル―原題と邦訳―の考察から始めよう。『太陽がいっぱい』の原題は“The Talented Mr. Ripley”である。
直訳すれば『才能あるリプリー氏』。どのような才能を彼はもっているのか。原文の中で“talent”という言葉を使ってリプリーの才能についてふれている箇所が二つある。
一つめは役者になるための才能だ。二〇歳のとき彼は、俳優になる夢をもちニューヨークへやってきた。自分には十分才能があると思っていた。しかし、オーディションに三回続けて不合格になり、自分には才能がないとあきらめた。
もう一つは数学の才能だ。彼はこうつぶやいた。
『彼には数学の才能があった。それで金を稼げる場所が、どうしてどこにもないのだろう』(本書一四頁)