リプリーに簿記や税理士の資格があったとの記述はないが、後述するような税金がらみの詐欺の手口や、知人の所得税を合法的に少なく算出し感謝されたとの記述があることから、彼は計算能力が高かったことをうかがわせる。それでも大都会ニューヨークでの職探しはうまくいかない。
二つの才能を活かすことができなかったリプリーは、原文中では“talent”として描写されていない「タレント」に活路を見出すことになる。
『どこかヨーロッパの会社のセールスマンになり、世界を股にかけるのもいい。(中略)トムは車の運転もできるし、計算もはやいし、年老いたおばあちゃんも退屈させないし、お嬢さんをダンスにエスコートすることだってできる。彼は万能で、世間は広い!』(本書五〇頁)
『ぼくはなんだってできるんだ―ボーイだって、子守だって、経理だってできる―不幸にして、ぼくには計算の才能があるんだよ。(中略)サインだって真似(まね)ることができるし、ヘリの操縦もできる。
ダイスも扱えるし、どんな人の物真似だって、料理だってできる―それに、ナイトクラブのレギュラー出演者が病気になったら、ワンマンショーだってやれるさ』(本書八〇頁)
一つめの引用は、ヨーロッパへ向かう船上でのリプリーの独白である。二つめの引用は、イタリアで出会ったばかりのディッキーが、リプリーにきみは何ができるのかとたずねたときの彼の答えだ。
リプリーが列挙した中で、就職に活かせる才能は計算に強いことくらいである。だが、ここで筆者が注目したいのは、リプリーが、「万能」(原文versatile)とか『なんだってできる』ことを、自身の「タレント」とみなしていることだ。
『サインだって真似ること』、『どんな人の物真似だって』やれることは、後のリプリーの詐欺行為を暗示させるのだが、そういった悪だくみすら彼にとっては才能の一部なのだ。
リプリーのこういった発想は、彼がヨーロッパ近代の申し子であったことを物語っている。どういうことか? イギリスの著名な歴史家エリック・ホブズボームは以下のように述べた。
『二つの革命(産業革命とフランス革命―引用者註)の決定的な業績は、次のようなものであった。つまり、それらは才能にたいしてあるいは、とにかく活動力や抜け目なさや勤勉や貪欲にたいして立身出世の途をひらいたのである』
(『市民革命と産業革命―二重革命の時代―』邦訳岩波書店刊。三〇六頁)
つまりヨーロッパ近代は、才能だけでなく、「活動力」や「抜け目なさ」や「勤勉」や「貪欲」にも等しく立身出世の道をひらいたのであり、成りあがることができた者が、結果的にあとづけで、自分には才能があったんだと振り返ることのできた社会であった。
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