詐欺師×スパイ×ジェントルマン

はじめに

パトリシア・ハイスミス(一九二一 - 一九九五)は二二冊の長編小説と九冊の短編小説集を公刊した。彼女の作家生活は、毀誉褒貶の多い私生活とは裏腹に、はた目には順風満帆だったように思われる。

長編デビュー作『見知らぬ乗客』(原著一九五〇年刊)は、巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督によって映画化された。

クレア・モーガン名義の長編二作目“The Price of Salt”(原著一九五二年刊。後にハイスミス名義で『キャロル』として再版された)は、全米ミリオンセラーとなった。

長編四作目の『太陽がいっぱい』は、フランス推理小説大賞を受賞した。さらにアラン・ドロン主演の映画が世界的にヒットし、その原作者として彼女の名前は日本でも広く知られることになった。彼女はサスペンス小説の大家として評価されている。

筆者がハイスミスの作品を愛読するようになったきっかけは、『プードルの身代金』(瀬木章訳、講談社文庫(一九八五)、原著一九七二年刊)を読んだときだった。

この作品は、二つの時事問題―①ペット溺愛社会、②民族・人種の確執―を題材に、多民族都市ニューヨークで暮らす、救いようのない人間たちを描いている。

『プードルの身代金』は、公民権運動の高まりで導入されたアメリカのアファーマティブアクション(マイノリティへの積極的格差是正措置)を無条件に良いことだと考えていた筆者には衝撃的だった。

今日から振り返ればこの作品は、白人至上主義のバックラッシュを、アファーマティブアクション導入直後からすでに予言していたともいえる。

ハイスミスは一九九五年二月に亡くなった。同年一月の阪神・淡路大震災と同年三月の地下鉄サリン事件の間にはさまるかたちで。

日本を震撼させた二つの出来事の間にはさまって彼女が亡くなったという事実が、当時の筆者には、日本人として何やら因縁めいたものに感じられた。