案内されたのは店の裏にある小屋だった。物置かと思ったが、寝具や調度品が揃っているので生活の場にも使えそうだった。五郎兵衛は茶と菓子などを置いて「ごゆるりと」とすぐにその場を離れた。平八郎とは以心伝心らしい。
「商人ながら五郎兵衛も学究心の強い男でな。商売のかたわら、わしの講義を熱心に聴いていってくれるんや。ここは、時折隠れ家に使わせてもろうてる。さてと」
「なんなりと」
平八郎は懐から「国家之儀ニ付申上候」と表書きされた書状を取り出し、意義の前に置いた。
「幕閣に読ませたい建議書や」
眼で伺いを立てた。中を見ても? 平八郎は頷く。建議書とは、為政者たちに議論してほしい案件を記した文書だ。だが読み進めると、内容はそんな生易しいものではなかった。跡部をはじめとする幕閣の無能ぶりを暴いて告発しているのだ。
「これを、田沼意留殿に渡して欲しいんや」
内容もさることながら、渡す相手の名を聞いて意義の脳裏に逡巡と葛藤がよぎった。そして平八郎もそれを見越していたのか、突然頭を下げて言った。
「お主が勘当された田沼家に、行きづらいのを知った上で頼む。これが、生命線になるやもしれんのや」
密談の目的を知り、意義は感慨深く目を閉じた。
「わかりました。でも私が帰るまでは、事を終わらせないでくださいよ」
意義は、建議書を大事に懐にしまって続けた。
「ようやく見つけた死に場所ですから」
平八郎は思う。この男、過去に何があったか知らぬが死に急ぐきらいがある。腕も立つ。頭も切れる。人間もできているのに。だが次にする話は、その死に急ぎが肝要となる。
「うむ。それと、もうひとつ……」
わしは今からこの男に死を宣告する。いや、格之助や塾生全員にもだ。わしは事を成すために利用できるものは全て利用する。そして、あの世で詫びる。それしかあるまい。平八郎はそう覚悟を決めていた。
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次回更新は2月1日(土)、11時の予定です。
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