「商用で当分戻らん、と伝えとき」

その屋敷の門前には平八郎が立ち尽くしていた。門はおろか、店頭までが雨戸を降ろしていた。普段の善右衛門は本拠地のこの両替店に起居しているはずだが、見回しても主人はおろか店子たちの姿もない。平八郎はお遣い帰りの丁稚をつかまえて、なんとか伝言を頼み一刻ほど待たされた。そして返ってきた返事が「当分戻らぬ」だ。

「アホンダラが!」

平八郎は大方が飲み込めて、憮然と両替店を後にした。ただ善右衛門は平八郎を黙殺する道とは別に、貧民救済事業という道も用意していた。得られる莫大な利益のほんの一部を使ったに過ぎないが、このことが免罪符となり鴻池屋は大塩の乱以後も大商いを続けることができた。そして明治の初めには日本最大の財閥に発展していくのだった。

その数日後、平八郎は信用のおける塾生の田沼意義を伴って西船場の商家に向かった。密談とはいえ天満からここまで離れた場所に連れて行くのは、ここを覚えておけということだと意義は理解した。表には「美吉屋」の看板を掲げ、染物の売買を営んでいる店だ。急な訪問なのに主人の五郎兵衛が笑顔で迎えてくれた。

「これは、先生。ようお越しやした。旗の件やったら手前どもの方から」

「旗」という言葉に意義はぴくりとなる。武士が旗を注文したのだとしたら、それは戦場に持っていく幟ということだろう。

「ああ、今日はちゃうねん。久しぶりに知己の者が訪ねて来たもんやさかい、積もる話を聞きとうてな」

と、意義を五郎兵衛に紹介した。顔を覚えてもらっておけ、ということ。

「渡辺良左衛門と申します。不肖の弟子です」

渡辺某はここ大坂で意義が使っている偽名だった。なにぶん大坂は幕府の直轄領なので田沼姓は他人の関心を買う、との懸念からだった。

「美吉屋の主、五郎兵衛どす。お侍様。どうぞ、よろしうに」

五郎兵衛の方も意図を察したらしく、意義の顔を刻み込んだようだ。

「離れ借りるで。ええか?」