大王の密使
一
朝、老剣はいないが、蝶英は丘に上って木刀の素振りをしている。いつもは昼の鍛練だが、今日は続けて行っている。汗をかきながら無心に木刀を振るう。
「蝶英」
老剣の声に、動きを止める。振り向くと、老剣がゆっくりと近づいてくる。
「お帰りなさい」
蝶英がそう言うと、老剣は笑顔になる。
「蝶英、飯にしよう。干し魚がある」
干し魚。滅多に食べられない御馳走だ。蝶英は、喜んで小屋に走っていく。毎日、剣の鍛練を強いているとはいえ、やはり十六の少女であることに変わりはない。老剣も笑顔で蝶英の後を歩いていく。小屋の中では、もう囲炉裏が煙を上げていた。老剣が都で手に入れた干し魚の束を手渡すと、蝶英は手早く木枝の串に刺した。囲炉裏に串を並べる。煮立った鍋に、菜を入れた。
老剣に汁を入れた碗を渡して、自分の碗にも汁を入れる。いい按配に焼けた干し魚の串を取ってかぶりつく。蝶英は、老剣が何処に行っていたかは訊かない。それが、約束事になっている。老剣が話したければ、話すだろう。
「蝶英、私は旅に出る」
老剣が魚を食べながら、口を開いた。えっ、蝶英は驚きながら
「旅。旅って」問い返した。
「ああ。二月(ふたつき)ほどの旅になるかもしれん」
老剣は笑顔で言う。蝶英はこの山里の周りから出たことはない。旅、というものが想像できなかった。