【前回の記事を読む】「あの娘は並みの娘じゃない。師匠と十年も剣の修行をしている。剣を投げ返されなかっただけでも命拾いをしたな」
大王の密使
二
旅の途中に一度、老剣に尋ねたことがある。
老剣は、こう英子に話した。
法広に言わせると、『気』はこの世界、自然界の万物の持つ力。山も川も森も獣も。そして人も。全ては、この『気』を持ち、様々な『気』の流れの中で生きている。そして、ただ人だけが、その『気』を意志として発し、受け、操ることができる。
これは中華の古からの教え。八百年前の渡来人の残した『気』。そして今、その末裔が発する『気』。法広は、それを捉えることができる。そのために海を渡って、このやまとの地にやって来た。
老剣はそう言うと笑う。そして、自分は人が人を害しようとする『気』しかわからない。それを、殺気という。人を殺(あや)める修行しかしていないから、殺気しか知らない。
今度は、声を出して笑った。
老剣の説明した『気』とやらは、確かに仏法には馴染まない。高句麗の僧が嫌うのも肯ける。斑鳩での恵慈の言葉を、英子は思い出していた。
法広の言葉に、英子はその顔を見る。
「それで。まだ遠いのか」法広は頷く。
「まだ、方角ぐらいしか。ただ、『気』を感じるということは、在(あ)る、ということです」
「在る」
どういうことだ、英子は法広を見る。「そうです。彼らは在る。生きている。末裔たちは、この先の地で確かに生きている。そういうことです」
「それは、隋の地でも感じていた。そういうことか」
そうでなければ、裴世清や法広が、隋王の命で来ることはないだろう。英子が更に尋ねると、法広は頸を振る。
「さすがに海を越えて、『気』を感じ取る術者は、隋広しといえどもおりません」そう言って笑う。
「『気』を感じなくても知ることはできるのです。その道の卓越した術者がおれば」
「その道とは」
英子が尋ねる。