大王の密使
一
老剣はそう言うと、守人を見直した。
「どうするって。おれは、皇子様に仕えた身だ。今でも、それは変わらない。命じられたら何処にでも赴く。戦だろうと人捜しだろうと。それだけだ」はっは、と守人は笑う。
「おまえは、もう身を引いたんだろう。海の向こうから帰って。厩戸皇子が日嗣の御子になって、そのとき、退く格別の許しを得たはずだ。違うか」
「もう昔のことだ。良く憶えているな。他人事(ひとごと)なのに」守人は笑う。
「あの稲妻の龍剣が、剣を置いて引退したんだ。憶えているさ」今度は老剣が笑う。
「皇子様は、おまえが断らないと知っている。違うか」
守人は老剣を見る。老剣も守人の碗に酒を注ぎながら、見返した。
「そうだ。おれは、それで満足だ。まだ、この老い耄れを憶えていて下さった」守人は、へっ、という顔をする。
「何も知らされないでか。それでもか」
「剣士は、ただ、戦うだけだ。何のため、など、知る必要はない」
「馬鹿だ。大馬鹿者だ。おまえは。相変わらずの」そう言われて、老剣はまた笑った。
老剣が宮殿を出た後、僧の法広も離れた迎賓の間に下がっている。今、厩戸皇子は一人残った蘇我英子と向き合って、胡座をかいて座っている。
「それで。あの爺さんがおれのお供か」英子が言う。
「ああ。大がかりなことはできん。大王も、この度のことは難しいと思っておられる」
「そんなところへ、おれをやる気か」英子は、にやにやと笑っている。
「しかたがないだろう。蘇我の親父殿の推挙だ」
「おれを、厄介払いしたいのさ」
英子の言葉に皇子も苦笑いする。
「隋使の裴世清殿のたっての依頼だ。協力しないわけにはいかない。裴世清殿を通して、隋王に貸しも作れる」
「しかし、本当にあると思うか。八百年前の秦の文書(もんじょ)なんて。裴世清も法広も、しかとは言わないが。どうも不死の術書があるらしい。恵慈(えじ)師がそう教えてくれた」英子が高句麗からの学僧の名をあげた。飛鳥での厩戸皇子の仏法の師でもある。
「それに、そもそも不死なんてものが。あると思うか」英子の言葉に、皇子は真面目な顔になった。
「もちろん、ある。仏法の中に。仏の中に永遠の生はある」英子は、苦笑して頸を振る。同じ仏教の信徒でも、皇子の仏法論は語り出すと止まらない。
「まあ、仏法はいい。皇子様の仏法は聞き飽きた。おれが訊いているのは、あの法広の探す文書のことだ。それが不死の術書だとしたら。そんなものが、あるとは思えん。あいつは洛陽の坊主というが、何か隠している。どうも信用できない」
「まあ、古の中華に不死の術があった。私も恵慈師に確かめたが、漢の史書にそんな記述があるという。八百年前に、不死の術を探しに東の海に出た者のことが」
厩戸皇子も、師でもある恵慈から仙術という術の名も聞いていた。古来、仏教とは別の教えだという。この斑鳩宮で法広を恵慈に引き合わせたが、互いに挨拶を交わしただけだ。何も話はしなかったようだ。
隋と高句麗との関係もあるが、恵慈は法広に関わろうとはしなかった。法広という男に、仏教とは別の匂いを嗅ぎ取ったらしい。