【前回の記事を読む】逃げ延びた僅かな残党の一人が、この男である。当時8歳だった彼は、館が炎に包まれて焼け落ちるのをその目で見ていた。
大王の密使
二
蝶英と老剣は、夕食の前に、いつも通り夜の鍛練をする。都を出てから、立ち合いの鍛練は真剣を使っていた。鍛練を終えて、食事を摂る。英子たちは別室の宴がある。
その宴の料理とは別物だろうが、それでも蝶英が見たこともないような、豪華な食事だった。玄米の飯に、焼き魚や煮物がついている。老剣には酒も出ている。
二人は、扉に目をやった。急に、隣部屋との引き戸が開いた。案内役の大犬が入ってくる。
「どうした、大犬」
老剣が声をかける。
「つまらん。おれは案内だから。宴には用無しだ。英子様や坊さんが相手だとさ」そう言うと、老剣の傍らに腰を下ろした。老剣は笑う。
「まあ、そう怒るな。おまえは、館の主(あるじ)と顔見知りとはいえ、ただの雑兵上がり。顔繋ぎしたあとは、邪魔だろう。ほら、飲んで機嫌を直せ」
老剣は自分の膳の酒を大犬に注いでやる。大犬は一息に飲み干した。
「板東や常陸の国を行き来したおれを、わざわざ呼びつけておいて」
不満そうな大犬の、空になった碗に酒を注ぎながら
「英子様は蘇我大臣の末子だ。そして蘇我は大王を出す血筋の家柄。身分違いも、甚だしい。本来、われらが気安く旅をご一緒できる御方ではない」
そう言うと、大犬も黙ってしまう。
「ここの前野主にとっても同じこと。地方の領主が、直々に会える御方ではない。だからこそ、前野主も、ここぞと自分を売り込みたいのだ。都でより高い位が得られれば、この東国の地での重きが違う」
老剣も、厩戸皇子や大王が、いずれ、隋のように全ての地方に役人を置いて、この国の隅々まで支配を広げたいということを、耳にしていた。大犬は、それを聞いて頸を振る。
「おれは、そんな政は知らないな。知るはずもない。東国に詳しいことで案内役になっただけだ。老剣殿の言う通り、どうせ、元々はただの雑兵だ」
大犬は酒を飲み干して笑う。蝶英も、そんな二人を見ている。すっかり山の中に籠もっていると思っていた老剣が、都の事情に明るいことに驚いていた。
そんな蝶英の顔を見て「いろいろ、知らせてくれる者がいる。いいことも悪いことも」そう言うと、笑っている。
ときどき小屋からいなくなるのも、都と行き来していたのだろう、蝶英はそう思った。老剣と大犬は酒を酌み交わしながら、ぼそぼそと話を続けている。蝶英は部屋の隅で、掛け物にくるまると横になる。そのまま寝息を立て始めた。