「先輩だからとおとなしく聞いてやっていれば! 貴様こそ、今はただの隠居爺であろうが。奉行に意見するなぞ、た、た、立場をわきまえよ!」
「なんやとコラ」
同心たちは、平八郎が跡部に殴りかかろうとするのを必死になって止めた。ノンキャリアOBがキャリア官僚をポカリ、っておいおい……と、腹の中で快哉を叫びながら。
跡部が評判通りの男なのを確認すると、平八郎はその足で鴻池善右衛門のいる両替屋に向かった。鴻池屋は名だたる大坂の豪商である。その当主善右衛門の名は17世紀初代正成から受け継がれ、この時点では九代目の幸実が平八郎に対応した。その九代目に頭を下げて、平八郎は懇願した。
「鴻池屋、頼む。わしと門人の禄米を担保に、一万両を貸してほしい」
善右衛門は驚いた。元与力で、ここ大坂では押しも押されぬ有名人が頭を下げている。「お手を挙げとくなはれ、大塩様。おいでになるなり土下座とは何事ですか。そもそも一万両もの大金をどうなさるおつもりで」
「ようさん米を買うて、飢えに苦しんどる者たちに配るんや」
平八郎は頭を上げて事情を説明した。善右衛門は、これはどうしたものかと思案したが、結局そつない返答を選んだ。
「これはご立派なお考えで、身どもも熟考しとうおす。申し訳おまへんが、善右衛門にしばしのお時間頂戴できまへんやろか」
「わかった。よい返事を期待しとるからな。あんじょう頼んだで」
平八郎の顔が一縷の希望にぱっと輝いた。だが官僚同様、豪商もまた有事に際し二つの道を用意していた。
平八郎が鴻池善右衛門に一万両の借金を申し込んでから数日が経った。そろそろ返事をすべき頃合いで、善右衛門は跡部と料亭で密会した。
「いかがしたもんでっしゃろか」
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次回更新は1月18日(土)、11時の予定です。
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