「たりめえだろ。百姓が一年がかりで作った米を、てめえらは汗ひとつかかねえでぶん捕ってく。百姓ならみんな憎むさ」

どうやら、やはりこの小僧は百姓の出らしい。

「……侍は、社会の居候」

「あん?」

「先生の持論だ」

「きのう言ってた先生か?」

先生に教えてもらえ、と意義は言っていた。

「大塩平八郎。もと大坂町奉行の与力で、今は陽明学の塾長をなさっている」

「よーめー? おおしお? 知らね」

化政時代は概ね泰平だったが、天保四年(1833年)から天保の大飢饉が日本中を覆っていた。五十年前の天明の大飢饉と同様に、主な原因は大雨による洪水や冷害による凶作だ。

ただ天保期は商品作物の商業化が進み、農村に貧富の差が拡大していた。そのため飢死者は米作に頼った貧困層に偏り、さらに米価急騰も引き起こしたため各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発した。「格差」に対する不満はマグマのようにぐつぐつと滾り、局所的に噴火していたのだ。

当時の日本の推計人口はこの五年間で125万人も減少している。当時約三千万の総人口との比率からすると、約4パーセントが餓死したことになる。天保七年(1836年)には幕府の直轄領・大坂(現・大阪市)でも飢饉は深刻を極めていた。農村部では毎日百五十人から二百人を超える餓死者が出ていたという。  

田沼意義とカイが箱根関を通過し大坂に向かう半年ほど前。この日の淀川にも餓死した民衆の死体が浮かんでいた。腐ってしまえば疫病の元となってしまう。知らせを受けた役人の手により遺体は粗大ごみのように扱われ、車に積まれていく。大塩平八郎は、その様を馬上から悲しげな目で見送った。

   

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次回更新は1月11日(土)、11時の予定です。

 

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