これを読み上げて、先生も同じお考えですかと聞いた。答えは「そう考えない医者はいませんよ」。それ以外の答えはできないだろう。

次に、用意しておいた質問をした。「先生、おいくつですか」四十八歳ということだった。

一気にこちらの考えを述べた。

「私も先生のお歳だったら、迷わず、抗癌剤を使っていたことだろうと思います。しかし、七十歳の今、年齢を考えて延命よりもQOL(生活の質)を重視した人生哲学を貫くことを希望します。現時点では、抗癌剤を使わないで定期的に検査をお願いしたいと思います」

そして、一時しのぎではなく本気で続けるつもりですよという姿勢を示すため、今後の具体的な検査のスケジュールについての質問をして、次の検査と外来の日にちを決めた。三十分くらいの面談だったが、最後は医者もニコニコ顔だったので、所期の目的を果たせたと、こちらもほっとした。

相手の気持ちを損なわないように、こちらの希望になるべく近い結論に到達することが、交渉の最終目標である。マーケッティング・マネージャとして、社内の他の部門、大口の顧客、下請けの会社などを相手にした経験からすると、やりやすい相手、やりにくい相手がある。

謙虚で、気取りのない人には、策が通じない。それに比べ、自信家で、権威を笠に着るタイプは、いろいろ作戦が立てられて与(くみ)し易い。医者や弁護士、企業の上級管理職は後者の範疇に入る人が多い。

そして、真正面から向き合うよりも、むしろ同じ方向を向いて並んで話し、いっそのこと自分の味方に付けてしまうことができれば、さらに上出来。こいつのためなら、一肌脱いでやろうかという気持ちに、いつもさせることができたら世の中渡りやすいのだが……。

病院を出て二人で並んで歩きだした時、妻がしみじみ言った。「そうか、四十年、ああやって、言いくるめられていたというわけか!」

ちょっとぉ、人聞き悪いこと言わないでよ。逆に私に言わせると、自分の方がコントロールされていると見せかけて、実はコントロールしているという、さらに上手(うわて)もありではないかと勘ぐっている。狐と狸の化かし合いになるだろうか。でも、まぁ仲良くやっているんだから、いいか。二人とも、来た時よりもほっとした気分で、やや軽い足取りで帰途についた。

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