赤の他人であるよりは、娘婿にしてしまいたい。そんな自分の欲を、若い医者の将来と娘の幸せのためだと信じて正当化した。おかげで二人の人生はねじ曲げられてしまった。
「断ってくれればよかったのに、と思うよ。愛を育むつもりがなかったのならね」
窮屈そうなカーシャに向かって、アニタはお構いなしに喋り続けた。反応がなくても、出ていかないだけ猫のエリゼよりはましだ。
「つまらない話だろ、お前には。だけどもうちょっと聞くんだよ。勝手に人の家に入ってきたんだから、それくらいのことはしなきゃね。ココアを淹(い)れてあげるよ」
アニタは冷蔵庫からミルクを取り出すと、小鍋に注いで火にかけた。カーシャに命じて、棚からココアパウダーを持ってこさせる。いくつも並んだ瓶や缶の前に立ったカーシャが、「どれ?」という困り顔を向けるが、彼女は「さあね」と惚(とぼ)けて首をすくめた。カーシャは仕方なく棚を睨んで、これだと思う一つの缶を掴むとアニタのところに持っていった。
「よしよし、よくできた。いい勘してるじゃないか」
ほめられたカーシャは少し頬を赤らめ、利口そうに口を結んだ。枝を取りあげたいつかの怖い女主人の印象が、とたんにどこかへ消えていく。
アニタはココアを渡してやると、再び遠い昔に思いを馳せた。
「五年我慢した夫は、医者をやめて養蜂家になったんだよ。甘い甘い蜂蜜は知ってるだろ」
春になるのを待ちかねて夫は家を出る。ずっと南へくだって、夏の間は花を追いかけ方々を旅して、冬が訪れるころに巣箱を回収してようやく戻ってくる。一年の四分の一しか家にいない夫は、自分たち親子に不平の一つもぶつけることはなかった。ただひたすら寡黙(かもく)に、心のうちを何も明かさないまま、婿としての義務を果たし続けた。
【前回の記事を読む】引き寄せられるように、足がそちらへ向かった。―拾われたばかりの頃の怖い記憶から、普段は寄り付かないようにしていたが…
次回更新は11月12日(火)、21時の予定です。