このような場所には寄りつかない方が賢明だと感じたとき、ちょうど終わったのか、男たちの背中が小さなどよめきとともに左右に開いた。興行側の人間らしい、同じ作業帽を目深(まぶか)にかぶった数人が、中央に設置された鉄製のフェンスを大急ぎで撤収するのが目に入った。
見渡したところ若い者はちらほらで、ほとんどがニコと同じかそれ以上の、中年ばかりだ。受け取った金を上着のポケットにねじこみながら、誰もがそそくさとこの場を離れていく。長居は禁物と、ニコも立ち去る人々に紛れてあとに続いた。
「カーシャ!」
突然、背後で女の声がした。
もちろん、ニコを呼び止めた声ではないが、カーシャと聞いてニコは反射的にふりかえった。賭博(とばく)にふける男たちばかりを見ていた矢先のことでもあり、女の声がきれいな鈴の音のように聞こえた。
立っていたのは若い女だった。フードのついた黒いコートを着ていれば男たちに紛れていても気がつかないが、正面から見たその顔は女としてもとりわけ美しい。
顔のまん中で分けられた黒っぽいストレートの髪は、彼女の白い肌を縁取って肘(ひじ)のあたりまで届いていた。やわらかな曲線を描く眉、髪の色を青いガラスを透かして見たようなきらきらとした瞳は、ニコを通り越して、誰かの背中を追っていた。
「あんた、カーシャを知っているのかい」
思わずそう聞いてしまった。声にしたとたん、ニコはそれがとんでもなく見当外れだと気づいたが、思いもよらずカーシャという名を耳にしたことが、何か運命的な符合を感じさせた。
若い女は急に視界に入ってきたニコの姿に大いに戸惑っていた。もじゃもじゃとした髪とひげ、まるで哲学者か芸術家のようなニコの風貌(ふうぼう)は、はじめて見る者を少しぎょっとさせる。
だが、よく見れば風采(ふうさい)のあがらないただの田舎者だ。はじめ彼女の顔にあった警戒はすぐに薄らぎ、安心するというよりはどこか見くびるほどにその表情はほどけていった。
「あなたのカーシャとはちがう人だと思うけど、知っているわよ」女の目が笑っていた。