これらが何を意味しているかと言えば、例えば(C+D)で(7+7=)14箇所の國造の一族は、ごく狭い領域の里の守護職が代々、次第に勢力を拡大して、国郡制の国の領域までもその所領にした、ということが考えられます。
又、(E)の、郡の名称と同じ名称の里がある國造の名称は26箇所ですが、この一族も同じように当初の里から郡の領域まで、その所領を広げていたようです。国名にのみ名が残っている27箇所の國造(A)と、国と郡に名称が残っている8箇所の國造(B)並びに、郡の名称のみの39箇所の國造(G)については、國造となって大王に帰順した当初から広大な地域(里群)を擁していた大・中の豪族の可能性があります。
しかし、国名や郡名にのみ國造名が残っているものは、母体である「里」規模の(邑)が、近隣との合併等で当初の名称が変わってしまった場合の可能性もあると思われます。一方で、(F)のように狭い領域(里)だけで終わってしまった國造は12箇所あります。更に、残りの17人については、該当する地名が見つからない國造等です。
【前回の記事を読む】任那(みまな)という命名は南朝に朝貢していた倭の五王の王権によるもの!?