「残念ながら、世界的にはぜんぜんだめだね」
私は、大内教授が、後に紛争収拾の過程で教養部長になってからは、残念なことに身近に話したことはなかった。
とはいえ、大学構内で偶然出会ったりすると「よお~!」などと言って手を振ってくれるなど、相変わらずサービス精神が旺盛だった。
ところで、「社会経済研究会」の内部では、仲間内で次のような会話も交わされたりした。
「大内秀明さんは、社会党支持なんですか」
「確かに社会党支持なんだけど、社会党員でない唯一の学者なんだよ」
さて、話をこの本のテーマの方に戻そう。私たちの『資本論』を読むというサークル活動が1年間ぐらい過ぎた頃、1975年6月23日に、「サークル協議会」によって、「30番台教室」の自主使用が行われた。
東北大学では、「教養部恒久サークル棟」の問題で、学生側の「サークル協議会」(通称「サ協」)と大学側の「サークル活動専門委員会」(通称「サ活専」)との間で数年間にわたって継続した交渉が行われてきていた。
ここで、「サークル協議会」と「サークル活動専門委員会」について簡単に説明しておききたい。まず、「サークル協議会」は、当時、110ぐらいあった教養部のサークルを束ねる学生側の組織である。
学生側には、文化系サークルの「文化部サークル協議会」(ふつうは、「文化部」を付けずに「サークル協議会」と呼ばれていた)と運動系の「運動部会議」の二つがあった。
大学側の窓口は、「サークル活動専門委員会」と呼ばれていた。これは、1971 年1月23日の学生側と大学側との申し合わせで、初めて使用された名称であった。ちなみに、それまでは、「部室運営委員会」(大学側)と「部室委員会」(学生側)と呼ばれていた。
このとき、「部室のないサークル」の一つであった私たちの「社会経済研究会」でもこの問題について話し合いが行われ、「30番台教室」に入って「サークル協議会」の「30番台自主使用」という方針を支援しようということになった。
というのも、実際のところ部室がないということは、サークル活動の制約にもなり、十分な活動ができなかったからである。
【前回の記事を読む】ある展覧会で東北大学の学生運動の資料が全くないのを見て共有できるものを残しておく必要性を感じる