東北大学処分粉砕闘争
1975年当時の東北大学川内キャンパス
「30番台教室」とは、テニスコートの上にあった1階建ての木造建築物である。名称は「教室」であったが、大学当局はすでにサークル部室として改修し、1973年(昭和48年)から3年間にわたりロックアウトしていた。
各部屋の大きさは、せいぜい数人の学生が入ればいっぱいになった。部屋には、机やイスなどの備品は全く備えられていなかった。
「30番台自主使用」は、「サークル協議会」によって行われ、東北大学処分粉砕運動の発端となった。
「サークル協議会」は、「1サークル1部室」をスローガンとして掲げ、「部室のないサークル」にも部室を確保しようとした。一方で、大学側は、「第1サークル棟」や「第2サークル棟」に入っているサークルを「30番台教室」に移転させようと、「サークル協議会」に強硬に迫っていた。
学生側は、大学側がすでに確約した「教養部恒久サークル棟」の具体的な建設予定を示さない限り、「30番台教室」には移転できない、と拒否した。
というのも、「30番台教室」は大学のキャンパス移転計画では、将来的に取り壊されて仙台市の市道になることが明らかになっていたからである。