この店には、販売員が十人いた。住み込みは六人で、近くから通っているのが四人だった。

新聞販売員の仕事は、深夜の二時に始まる。自分の受け持ちの家に配達する部数を揃えて、間違えないように数を確認しながら、広告を新聞に挿入していくのだ。

朝の四時には自転車に積んで、販売店を出る。朝の五時前から、家のポストの前で、新聞が届くのを待っているお年寄りがいるので、一日として気が抜けない。

晴れた日はよかったが、雨の日、嵐や雪の日など、天候の悪い日は配達が嫌になることもあった。朝刊を配り終えて店に戻ってくると、朝八時を過ぎる。

賄いはついていないが、店にある粗品用のインスタントラーメンの賞味期限の切れているものが販売員の食事になっていた。食べ終わると二階へ上がって、仮眠を取った。

午前十時には起き出し、小ぎれいな格好をして、新規顧客の獲得に出かける。スーツはかえって相手を警戒させるから、配達のときのジャージをシャツとズボンに着替える。

一日約五十軒の訪問がノルマだった。五十軒営業して回っても、一軒契約してくれればよいほうだった。悪いときは、一軒も契約が取れない日が三日ぐらい続いた。

短い周期で、販売員が入れ替わっていた。みんな、新規顧客を見つけられないで、つまずくのだ。一週間新規の契約が取れないと、店長に嫌味を言われた。でも、ここの店は今まで勤めてきたなかでは、いちばんまともだと僕は思っていた。

午後三時から、夕刊を数えはじめる。夕刊を配り終えたら、電話営業をして、好感触なら会う約束を取りつけた。店長の奥さんが、機嫌のよいときは、料理を差し入れしてくれたが、それも一週間に一度あるかないかだ。

昼飯と夕飯は、自分で調達した。毎日、足が痛くなるまで歩き回ってクタクタで、シャワーもそこそこに、部屋に備えつけの布団に潜り込むと、時計を見る暇もなく日々が過ぎていった。

そのうちにインターネットが普及して、ニュースを電子版で読む時代になり、紙の新聞の発行部数が激減して、居住形態も大型の集合住宅が多くなった。

二年近く勤めたが、大学卒の頭の切れるやつに、取って代わられた。世の中は超就職氷河期で、大学を卒業していても新聞販売店に就職する人もいるのだ。

僕は次の月締め日に、あっさりとリストラされた。

【前回の記事を読む】監禁されているここから絶対に生きて帰りたい…。ある明け方、今だ!と直感し、そっと音を立てないように、立ち上がったところ…

次回更新は7月22日(月)、20時の予定です。

 

【イチオシ記事】「気がつくべきだった」アプリで知り合った男を信じた結果…

【注目記事】四十歳を過ぎてもマイホームも持たない団地妻になっているとは思わなかった…想像していたのは左ハンドルの高級車に乗って名門小学校に子供を送り迎えしている自分だった