何のために。日本という国のためである。そのことが伝わらず、天皇親政政治を復活させようとした天皇も現れた。一番代表的な天皇は後醍醐天皇であろう。天武・持統以降も天皇支配が継続しているならば、そういった天皇の行動は説明がつかないことになる。

天武天皇が手放す決意をした権力は、藤原氏、平氏、源氏、徳川氏、そして上皇が握ったこともあるが、様々な勢力がそれを行使したのである。そうでなければ、幕末の大政奉還の説明がつかなくなる。

ところで、天武天皇はなぜ天皇の権力放棄という突拍子もないことを考え出したのであろうか。中国の歴史を見れば分かるように、彼らはいつ果てるともなく延々と権力闘争を繰り返している。同じように狭い国土で権力闘争を繰り広げれば、民も疲弊し、安穏な生活はいつまで経っても実現しない。

天武天皇はそれを幼少の頃から身近で散々見聞きをしてきたし、自分自身も肉親を討ち倒した。現在、たまたま権力の頂点に君臨しているが、いつ追い落とされるか分からない。力勝負であれば、そういうことが繰り返されていく。どこかでその悪しき連鎖を断ち切る必要がある。権力を手放すことによって求心力を得ることを考えたのである。

そんなことができるのか。現にできている。新年の宮中参賀や御誕生日の一般参賀には毎年何万人もの人が純粋にお祝いのために訪れて日の丸の小旗を振っている。権力を手放してもなおかつ、人々が振り向き寄り添ってくれる。そのメカニズムを彼は考え出したのである。

大陸では多くの国や民族がひしめき合い、国境線をめぐって絶えず争いを繰り広げ、それは今も続いている。そのため統治者に巨大な権力と権限を与え、国を守ることを第一と考えるようになっていく。ところが、日本の四方は荒海で囲まれているため、国内のことだけを考えれば良いことを天武天皇は何かの拍子に気付いたのであろう。

結局、白村江の戦い(六六三年)の後、唐と新羅の大軍は攻めてこなかった。天皇が権力闘争の輪の中から外れることによって安寧の世をつくれるのではないかと思い立ったのである。聖徳太子が説いた「和の国」の具体像が見えた瞬間だったのである。
 

【前回の記事を読む】『古事記』を正しく読み解く上で大事なこととは? 中心人物である天武天皇が置かれた状況や立場、当時の日本の歴史的、地政学的な状況を調べ心情を捉えながら紐解いていく

 

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