はじめに
詳細は本文に譲るが、『古事記』編纂の事業は、日本がそこに暮らす人々も含めて未来永劫安寧な世の中であるには、どのような原理を採用し、どのような統治の仕組みをつくれば良いのかという天武天皇の壮大な問題意識の上に立って始められたプロジェクトだったのである。
とにかく、権力温存のアリバイづくりのための『古事記』編纂事業と思っている限り、いつまで経っても正確に読み解くことはできない。監督の思いや考えを無視して映画鑑賞をするようなものだからだ。
そして何事を解明するにしても、ミクロとマクロ、陰と陽の二つの視点が必要である。それらによって立体的に物事を理解できる。ミクロだけ、つまり『古事記』だけを見つめていても、『古事記』に込められたメッセージを読み解くことはできない。「群盲象を評す」ことになる。
そして実は、天武天皇はそのメッセージを具体化するために、律令制(飛鳥浄御原令)を用意した。構想だけ書き込んで、制度を用意しなければ画餅となるからである。
どのような構想だったのかは太政官制度の仕組みを分析すれば分かるが、それについては第五章で詳述した。先行研究に依拠しながら分析をすると、時の権力者をその制度内に取り込む考えだったことが分かる。
要するに「太政官 神祇官」制度は、権力と権威の分離を保障するための制度だったのである。天皇は時の権力者を支える役割を担おうとしたのである。実際に平清盛、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康といった面々は太政大臣として任命されている。最後の将軍の徳川慶喜は内大臣である。
『古事記』を天皇の権力支配の正当化の書として捉えてしまうと、律令制度の本当の狙いが分からなくなってしまう。
とにかく天武天皇が考案した「太政官 神祇官」制度は、約千百年の命脈を保って明治の時代まで存続したのは事実である。
制度も建物と同じで基本の考えが道理に適っていれば長年の風雪に耐えることができる。そして、その制度の庇護のもとに文化の華が咲き誇ることになる。
つまり、天武天皇の構想の検証は、江戸時代までに学問と文化がどのような華を咲かせたのかを見ることによっても検証できる。現実の世界を見れば分かるように、強権国家や特定のイデオロギーが支配する国において、多様な文化、芸術の華が咲くことはあり得ないからである。
天武天皇によって始められた日本独特の統治のあり方が皇統と多様な文化の歴史をつくり上げたことは間違いない。