この事件は一二〇七年のことで、承元の法難と呼ばれている。この事件の内容については、ここでは触れないでおく。興味は後鳥羽上皇が親鸞を流罪にしたことにある。流罪の命令を出した人物が、のちに流罪にされているのである。

これが、歴史の妙(みょう)であるのかもしれない。後鳥羽上皇が隠岐でいのち終えたとき、親鸞は関東から京都に帰ってしばらくたったころで、六十七歳になっていた。

晩年の親鸞が関東にいる門弟に宛てた手紙のなかに、遠回しに承元の法難をにおわせるような文を書いている箇所がある。決して非難する口調ではなく、静かに念仏申すことをすすめている。

歴史に「もし」はない、といわれているけれど、もし法然と親鸞が流罪になっていなかったらどうなっていたのだろう。もし親鸞が越後に流されたあとで赦免(しゃめん)になったとき、そのまま法然のもとに帰っていたらどうなっていたのだろう。

もし親鸞が関東に行ったまま、京都に帰っていなかったらどうなっていたのだろう。などと勝手な想像をしてしまうのが、私の癖である。

でも、これはこれで、なかなかおもしろいものである。ひょっとしたら、いまの私はいなかったかもしれない。なんだか隠岐とは無関係な話になってしまった。隠岐に戻そう。

もうずいぶん前のことになるが、県内の私立幼稚園の夏季研修会が隠岐であった。最初で最後だったのかもしれない。そのときの懇親会は、海岸でのバーベキューだった。

魚介類豊富な隠岐のこと、サザエやアワビがたくさんあった。そのなかでも驚いたのは、一メートルもあるシイラが、丸ごと網の上にのせられていたことだった。

この豪快さが隠岐なのだ、と感じた。人柄もあっさりとして、大らかである。二〇一三年には「ユネスコ世界ジオパーク」に認定されていて、自然の宝庫であり、海の青さは格別である。

トビウオが海面すれすれに、長い距離、長い時間飛ぶ姿を初めて見たのは、隠岐でのことだった。空中高く飛ぶものだと思っていた私には、ふしぎな姿だった。

現在の隠岐は流刑地ではなく、自然と人が共存して作り出している、癒しの空間といってもいいのだろう。

【前回の記事を読む】穏やかな街並みの続く石見。森鴎外は「石見人として死にたい」と遺言を残していた。

 

【イチオシ記事】我が子を虐待してしまった母親の悲痛な境遇。看護学生が助産師を志した理由とは

【注目記事】あの日、同じように妻を抱きしめていたのなら…。泣いている義姉をソファーに横たえ、そして…