二人ともに血気盛んな性格のように思えるが、後鳥羽上皇は和歌に通じていて、『新古今和歌集』の編纂を命じている。後醍醐天皇も学問や宗教など、文化的な面で功績を残している。そんなところが「雅」ということばにつながるのだろう。

ところで後鳥羽上皇は、私が教えをいただいている親鸞とも深く関わっている。親鸞はいまでこそ誰でもその名を知っていると思われるが、明治の初め、それこそ西洋の考え方が日本に入ってきたころには、その存在が疑われていたことがあった。

なぜなら、親鸞は自分自身のことをあまり書き残してこなかったからであり、その存在の根拠となる文章があまりにも少なかったからである。

しかし親鸞の一番の著書である『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』(略して『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』)の後序(ごじょ)(あとがき)に次のような文章がある。

長くなるが、現代語訳(本願寺出版社)で紹介する。

……しかし、諸寺の僧侶たちは、教えに暗く、何が真実で何が方便であるかを知らない。朝廷に仕えている学者たちも、行(ぎょう)の見分けがつかず、よこしまな教えと正しい教えの区別をわきまえない。

このようなわけで、興福寺の学僧たちは、後鳥羽上皇・土御門(つちみかど)天皇の時代承元(じょうげん)元年二月上旬、朝廷に専修(せんじゅ)念仏の禁止を訴えたのである。

天皇も臣下のものも、法に背き道理に外れ、怒りと怨(うら)みの心をいだいた。そこで浄土真実の一宗を興された祖師源空上人(そしげんくうしょうにん)(法然のこと)をはじめ、その門下の数人について、罪の内容を問うことなく、不当にも死罪に処し、あるいは僧侶の身分を奪って俗名(ぞくみょう)を与え、遠く離れた土地に流罪に処した。

わたしもその一人である。だから、もはや僧侶でもなく俗人でもない。このようなわけで、禿(とく)の字をもって自らの姓としたのである。……

ここに後鳥羽上皇の名前が出ている。後鳥羽上皇が法然の弟子四人を死罪とし、法然を土佐に、親鸞を越後に流罪としたのである。